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Author:みつお
オードリー・ヘプバーンのファンです。最近は色々とオードリーに関して調べています。
一番好きな映画は「いつも2人で」。
どうぞよろしく!
別のブログでオードリーグッズの紹介もしています。
リンクで行ってみてください。
なお、画像や文章の無断転載はお断りします。

©おしゃれ泥棒 オードリー・ヘップバーン!by みつお


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今日はオードリーの85回目の誕生日です。
そこで以前から気になっていたことを書きます。

オードリーって実生活では母性の強かった人でファンには知られていますよね。
「暗くなるまで待って」の後で、オードリーは子育てに専念する為にしばらく映画界を退いていますし。

でも映画では、オードリーはなんと3回しか母親の役を演じていません。
「モンテカルロへ行こう(モンテカルロ・ベイビー)」「いつも2人で」そして「ニューヨークの恋人たち」。

でも初期の「モンテカルロへ行こう」は赤ちゃんがいなくなるというドタバタ喜劇で、オードリーは母親でありながら、母性はあまり必要とされていない。そのうえまだオードリーも若いし、実際には母親になってないので、母親らしさは皆無。

「いつも2人で」はさすがに実際の母親になってからなので、せっかく作った砂のお城を壊された娘を思い遣るシーンは巧いのですが、子役があんまり気にしてなさそうなのがネック。(^^;
それにあくまでもこれは夫婦の話なので、あまり子供に重心は置かれていない。

「ニューヨークの恋人たち」は子供と歩くシーンがありますが、まあこれも子供がいるんです、っていう設定を見せてるだけで、話の筋では飾りみたいなもの。

なので、あんまり子供との関わりってのがないんです。映画では。
「噂の二人」が学校を経営している教師の役なので、子供は出てきますけど、これも母性が見れる作品では無いですしねー。

過去にオードリーがオファーを受けながら断ったらしい作品を調べると、子供との関わりの大きいものも無かった訳ではなさそうなんですよね。
たとえば「サウンド・オブ・ミュージック」。他に子供と大きく関わる作品が無いので、オードリーが演じたらどうだったんだろう…っていうのがあんまり想像できません。

他にも、1959年の「月夜の出来事」というケーリー・グラントのロマンティック・コメディ映画で、映画評論家の大御所だった双葉十三郎氏が “これはオードリー・ヘプバーンの為に用意されたのではないか?” と書いておられます。
妻が死んで3人の子供を持て余しているところにソフィア・ローレンが現れて子供たちと仲良くなり、グラントと結ばれる…という役らしいんです。が、ソフィア・ローレンだとアクが強く、微笑ましさがない。オードリーだったらもっとキュートになったろう…と述べてらっしゃるんですよね。
もっともその時期のオードリーは「尼僧物語」「緑の館」「許されざる者」と、演技も出来る事を見せようと、真面目な映画にチャレンジしていた時期だったので、オファーがあってもコメディには興味なかったのかもしれません。

逆にオードリーにお母さんのいた役ってのもほとんどありません。実の母は「戦争と平和」1本だけ。あと「許されざる者」では育ての母がいますが…。
父子家庭なら「麗しのサブリナ」「昼下りの情事」「尼僧物語」「マイ・フェア・レディ」「おしゃれ泥棒」と5本もあります。「華麗なる相続人」でも冒頭で父が亡くなりますが、母は既にいない設定なので、計6本になりますよね。

実際には父と離れて母子家庭だったオードリーですけど、このお母さんがかなり厳格にオードリーを育てたそうで、一般に想像するような優しい母のイメージでなかったことはファンの間では有名。
オードリーの伝記でも、母エッラは他の人といる時はとても気さくで明るい人柄なのに、オードリーに対しては別人のようで、とても厳しかったそう。オードリーもそれを苦痛に思ってたフシがあるんですよね。でもエッラは本当はオードリーを物凄い大事に思ってたんだろうなー、大好きだったんだろうなーって思います。エッラとオードリーにとって残念なことに、エッラは愛情の表現の下手な人だったんでしょうね。

ま、そのおかげで友人たちが知る自分を律するオードリーが形成されたんでしょうが、このオードリーの持つキリッとした感じが、演じるにあたっても母子家庭の子というよりも、父子家庭でお母さん亡き後、家の事一切をこなしてきた健気にお父さんを支える娘、という方がピッタリだったんでしょうね。

現実では母の(目に見える)愛情を受けなかったので、自分の子供には思いっきり母の愛情を注ぎたい!というのがオードリーの願いだったようです。
やがてそれが “映画に出ていると子供との時間が減ってしまう…” という思いに変わっていったようで、「いつも2人で」や「暗くなるまで待って」の頃のインタビューでは既に映画よりも子供といる時間を大事にしたいという発言をおこなっています。

後年ヴィスコンティが「家族の肖像」で、ピーター・ボグダノヴィッチが「カーテンコール/ただいま舞台は戦闘状態」でオードリーに依頼したような、年下の男と関係を持つ、などというオードリーのそれまでとあまりにかけ離れた、かつオードリーが演じたがらない役柄ではなく、オードリー自身に有り余っているような母性を演じるような、楽しいor真面目な役のオファーがあったら、もしかしたらオードリーも出演に快くOKを出したかもと思うんですよね。

でもなんで、そういうオードリーに不向きな役を監督たちもオファーするんでしょうねー。オードリーの性格からして、そういうのはもう依頼する前から受けないとわかりそうなもんですけどねー。まあ70年代という時代の映画が、オードリーらしさなど求めていなかったのかもしれないな〜とは思うのですけれども。

結局そういうオードリーの溢れる母性は、晩年のユニセフの行動に繋がっていって、“世界中の子供たちを救いたい!”と訴えるようになっていくんですよね。
その思いは今でも“オードリー・ヘプバーン子供財団”が引き継いでいるわけですけれども。

もし後期にそういう母の役があれば、ファンには実生活でのオードリーが息子たちにどんな風に接していたのかが垣間見えたかもしれませんし、「ロビンとマリアン」に続いての後期の代表作が出ていたのかも…なんて思って、ホントにもったいないな~と思うのです。
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「踊り明かそう」

さて、最初に書いたように、この作品をオードリーの最高傑作!
と呼ぶのには(僕は)なんのためらいもないのですが、
個人的に言わせてもらうと、大使館での舞踏会が終わってから、
ちょっと退屈します。
イライザのお父さんの「時間通りに教会へ」のナンバーなんか、
これが大作でなければカットされるでしょうね。
見ていて楽しいけど、本筋とは関係ないし。

初めて見た中学生の時なんかは、女心がわからなかったもので
(まぁ、今でもわかっているかどうか疑問ですが…)、
大使館でのあと、なんでイライザがあんなに不満なのかわかりませんでしたね。
花売り娘の時代のイライザなら、
きっとあの場で、“私のおかげよ〜!”ってな感じで
ノー天気に真ん中にしゃしゃり出て行きそうな気もするのですが、
“私はこれからどうすればいいの!”って泣き崩れますよね。
言葉使いと共に、内面まで変わっていってるんですね。
強烈に自我が目覚めてます。
それと、ここ、意味深なこと言いますね。
“昔は、花は売っても体は売らなかった。レディになった今は、体しか売る物がない!”
おっとー!文字通り、体を売るわけではありませんけれど、
貴婦人ってそう言われれば…って思いますねー。
もちろん、シンデレラ・ストーリーですから、ここは軽く流していますけど、
これは原作者バーナード・ショーの皮肉が入ってるんでしょうか?

僕が退屈になるのはこんな所にも原因があるのかもしれません。
「素敵じゃない?」を歌っていた下町では
みんな貧しいけど、“いつかは!”って夢がある。みんな笑顔で生活してる。
でもその夢の世界に入ってみると、ガチガチに決まりごとなんかがあって、
お世辞でくるんだ作り笑い。しかも、“売るのは体だけ”。
うーん、前半は周りの人達が洋服は汚いけど、活き活きしてるんですが、
後半に出てくる上流社会では、洋服は華やかなんですけど、みんなの表情は硬くなるので
そのへんに僕にとっての原因があるのかもねー、なんてね。
だって、前半は、そういう上流社会に紛れ込んだ
下町のイライザの反応が面白いわけでしょ?
そのイライザが上流社会に溶け込んじゃったら、
普通のお硬いお話だし。
だから後半は“こんなのになりたかった訳じゃない!”
ってお話なわけでね。

ここでもう1歩突き詰めると、イライザは古巣に戻ろうとはするんですね。
家出ということで、もとの花を売っていた場所(コヴェント・ガーデン)に戻ってる。
でも、ここでもレディ扱いされて、だーれもイライザだって気付いてくれないもんで、
諦めてフレディとヒギンズ夫人の家へ。
で、結局イライザは“夢はあるけど、なかなかそうもいかないお気楽な下町暮し”
よりも、自分で言った“体を売らなければならない上流階級”
に留まることにしてますよね。ま、これは自分で自分の進退の責任をとる!
と決めた、ということでもあるんですが。
言い換えれば“責任のない”暮らしではなく、“自己管理が必要な”暮らしを選んだ、
ということで、これはこれでイライザの成長なんですよね。
貧しい暮らしには戻れるけれど、何にも考えない自分には戻れない、
ということで…。

ここで原作通りに進むと、結局イライザはヒギンズ教授を見捨てて
どこか行ってしまうわけで、原作のバーナード・ショーの皮肉が
たっぷり盛り込まれるわけなんですけど、
さすがにそこはハッピーエンドですよね。
原作(バーナード・ショーの「ピグマリオン」)に関してちょっと述べますと、
戯曲部分はイライザが出て行って終わりなんですけど、
その後にショー自身の後書きみたいな物があって、
イライザはフレディと結婚、
花屋を開くんですが、資金はヒギンズ&大佐持ち。
最初は順調でもやがて行き詰まり、
イライザとフレディは学校へ入り直し。
でも結局花屋としては何の役にも立たず、中退。
ふたたびピッカリング大佐持ちのお金で花屋を開く。
ある程度、人に任せてまあ何とか軌道に。
ヒギンズは、イライザに何か言うと
また反撃されるので、あんまり言わないそうで、
そのかわりイライザはお金を出してもらってるぶん、
今でもヒギンズ教授の身の回りの手配をやっている、
というすごいことに…。

イライザはヒギンズ教授とそのお母さんとの関係が深すぎて
そこに入り込めない、ということで
言うことをきかされるヒギンズ教授(愛してるけど愛されない)ではなく、
言うことをきいてくれるフレディ(愛してないけど愛される)にしたそうです。
まー、なんて夢も希望もないラストなんでしょうか。
でもこれバーナード・ショー翁自身がそう書いてるからそうなんですよね。
なんかちょっと原作では、親離れできない息子の話なのねー、みたいな。
映画ではヒギンズ教授がお母さんの所に泣きつくシーンでの
教授のお母さん、ミセス・ヒギンズの反応も意外。というか不思議。
昔は何気なく見てましたけど、
これだけ嫁・姑の関係が言われる中で、
あれだけ息子が言われてて、最後にお母さんが“イライザ、お見事!”
なんて言ってくれるかなーって。
ま、もっともここはまだ嫁・姑ではありませんけども。
原作で匂わされてる物とはえらい違いです。
海外って母と息子ってこんなもの?などと
子離れ出来ない母と、親離れ出来ない息子のうじゃうじゃいる日本を考えた時、
最近見る度ごとに思うのでありました(笑)。

で、映画ではイライザは、ヒギンズの気持ちと自分の立場をはっきりさせるために
ヒギンズ夫人の家でヒギンズ教授と対決しますね。
これはヒギンズ教授の家に来た頃の言われるがままのイライザでもない、
“私はどうすればいいの!”って自我は目覚めたけれど、
まだ自分が何をすればいいかわからないイライザでもない。
家出したあとの、“自分のことは自分で決めれる!”イライザですよね!
こう考えると、家出はイライザにとっての必然だったということで。
典型的な60年代の“自分で動く”オードリーですよね。
これが50年代のオードリーなら、きっと最後まで
“相手に何とかしてもらおう”っていう態度ですもんね。
やっぱりこのイライザ、強いじゃないですか〜!

だからよく考えると、
今までのオードリーの作品でずっと描いていた
“変身しました、そしたら恋も手に入りました。めでたしめでたし”
ではなく、“変身はしたけれど…”って、
恋を成就するまでに、もう1ステップ踏んでるんですね。
微妙ですけど、オードリーにしてはちょっと新しいですね。
ちょっと変身のあとが入ってる。しかも、その恋の成就のためには自分で動いてます。
華やかなコスチューム・プレイでくるんだおとぎ話なんだけど、
50年代の「麗しのサブリナ」よりももっとリアリティがあるんですよね。
“待ってても白馬に乗った王子様は来ないよ!”ってね。
この“その後の部分”がもっと発展すると「いつも2人で」という傑作になるという…。
それまでの集大成でありながら、
次のオードリーの段階の先駆けでもあるわけですね。
もちろん、こうやってオードリー作品が出揃ってからの後付けの解釈ですけれども。

色々あった「マイ・フェア・レディ」ですけど、
間違いなく、作品は素晴らしい!のですから、
アメリカだけでなく、日本でも、今こそこの作品でのオードリーの存在の凄さ、
オードリーだからこそ加えられたエッセンスを見直して欲しい作品です!
オードリーが心安らかにこの作品を思えることを願ってやみません。

2004年4月12日 改訂2004年7月10日

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