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オードリー・ヘプバーンのファンです。最近は色々とオードリーに関して調べています。
一番好きな映画は「いつも2人で」。
どうぞよろしく!
別のブログでオードリーグッズの紹介もしています。
リンクで行ってみてください。
なお、画像や文章の無断転載はお断りします。

©おしゃれ泥棒 オードリー・ヘップバーン!by みつお


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今のアメリカでは、作品も「ローマの休日」だけではなく、
まんべんなく愛されている感じがします。
「ローマの休日」「麗しのサブリナ」「パリの恋人」「尼僧物語」
「ティファニーで朝食を」「シャレード」「マイ・フェア・レディ」
「いつも2人で」「暗くなるまで待って」。
これらがオードリーの代表作として挙げられています。
ほぼ全部の時期のオードリー作品がありますよね。

でも今の日本ではどうでしょう?
「ローマの休日」、素晴らしいですよね。
「麗しのサブリナ」「昼下りの情事」「ティファニーで朝食を」
「マイ・フェア・レディ」、どれももちろん素晴らしいです。
でもその他の作品は?「シャレード」は?「尼僧物語」は??
「暗くなるまで待って」は???
僕の一番好きな「いつも2人で」は????

なんだか、「ローマの休日」と他の数作品のみで、
あとのオードリーはどうしたんでしょう?
オードリーって「ローマの休日」だけの女優さんなんでしょうか?
みたいな…。

答えは明らかに“否”ですね。
もしオードリーに「ローマの休日」と「麗しのサブリナ」
しかなかったらどうなっていたか…これがわかる記録があります。
上記2本公開後の1955年の人気投票では第1位になっているのですが、
作品のなかった翌1956年には映画の友とスクリーンで
16位と17位という結果になっています。

その次の年は「戦争と平和」があったので
スクリーンでは7位まで上がってきますが、
なんといってもオードリーの人気を決定づけたのは
57年公開の「昼下りの情事」と「パリの恋人」ですよね。
これらの作品がなかったら、オードリーは
一発屋で終わった可能性も…と。
オードリーの人気を支えてきたのは、
その後の作品だったのじゃないか、と。

これは誤解しないで欲しいのですが、別に「ローマの休日」を
否定しているわけじゃないんです。
「ローマの休日」ってとってもいい作品ですよね。
でも、他にもオードリーには「ローマの休日」に
勝るとも劣らない素晴らしい作品がいっぱいあるでしょ?
ってことを言いたいんですよね。

「ローマの休日」が一番好き!って人がいてもいいですけど、
それだったら「いつも2人で」や「シャレード」が一番好きな人
がいてもいいでしょ?
作品がそれに値しない駄作揃いならともかく、
オードリーの作品はどれも珠玉の宝石のような作品
ばかりなんですよ!
「ローマの休日」を下げてるんじゃなく、
それ以外の作品を上げてるんです!

確かに日本でもまんべんなく愛されていた時期があるんです。
1970年代まではある作品がずば抜けて、ではなく
どの作品も愛されていたようです。
当時の雑誌を見ても、若いオードリーだけでなく
「おしゃれ泥棒」の時期もあり、「パリで一緒に」もあり。
「暗くなるまで待って」もあって、「尼僧物語」もある。
「パリの恋人」だって、「シャレード」だってある。
だって、当時のファンは「ローマの休日」のファンじゃなく、
“オードリーの”ファンだから。

だから、歴代映画の人気投票とかすると、
オードリー作品は票が割れて、どれも上位に来なかったんですよね。
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今回はオードリー・ヘプバーンの日本での捉えられ方についてです。

オードリーの息子、ショーンが出した
オードリーの写真集(伝記)を見ていたら、
83年に初来日して、東京でジヴァンシーの
30周年記念ファッションショーに友情出演した時の
オードリーの写真が載ってました。
そこに付いていたキャプションで、
“日本はいまだにオードリーを愛している国”と書かれてたんです。
それを見て思ったのは、“嬉しい!”ではなく、
“なんか、なんか申し訳ない…”でした。

確かに、オードリーは、既に3世代に渡って日本で愛されている
女優さんで、今でも若いファンを続々と作り続けていますよね。
じゃあ、なんで“申し訳ない”のか…。

主役をやるようになって、アメリカ映画ばかりに出演していた
オードリーですが、一時期確かにアメリカでオードリーは
人気がなくなっていたようです。
“同じような役ばかりで、演技に幅がなく面白くない”とか。
70年代~80年代前半にはほとんど忘れ去られた存在だったようで。
僕も、高校時代、先輩の家でアメリカ人の女の子に会いましたけど、
全然オードリーのことなんて知らなくって、
その時「マイ・フェア・レディ」の一部を見てもらった後での
オードリーに対しての感想は“ソーソー”。
要するに“まあまあ”って言ってるんですね。
まあ、ファンの僕がいるから
“まあまあ”で済ませたんでしょうけど、
ホンネは“なんとも思わない”か“好きじゃない”、
へたすると“嫌い!”ってことでしょうね。

ところが、87年頃から“オードリーを見直そう!”
という気運が高まり、ジュリア・ロバーツなどが
“オードリーは私のアイドル”などと発言したり、
オードリーのユニセフでの活動が認められて、
最近はアメリカでも伝説の女優のアンケートで
キャサリン・ヘプバーン、ベティ・デイヴィスに次いで、
第3位にオードリーが入ったりしてますよね。
生前でも、晩年のオードリーがアカデミー賞のプレゼンター
なんかを務めると、会場にいるアカデミーの会員
(俳優・監督など映画に携わる人々)が全員総立ちの、
スタンディングオーベーション!
拍手がしばらく鳴り止まないのです!!
オードリー自身も予期せぬことだったようで、
感激のあまり涙がうるうる…。
あまりにも長い拍手のため、オードリーは一旦壇上から降りて、
会場のみなさんに深々と感謝のおじぎ。
僕も嬉しくって!うっ…(涙)。

よく言われるのが
“オードリーがこんなに人気があるのは日本だけ”
なんですけど、もうそういう言い方がとっくに時代遅れですね。
そんなこといまだに言ってる人、
20年も情報が遅いと思ってくださいね!

で、そのアメリカと、日本で何が違うって、
なんかオードリーを見ている視線と言うか、
質が違う気がするんですね…。
その女の子が自分を好いてくれてるってことになったら、
これは拒否する理由が見つかりません。
決して持ってあげなかった荷物も、
その後はぜーんぶマークが持ってる。
やっと女性扱いしてもらえた、ってことですよね。

一緒に泊まった宿屋でも、もうマークは無言でジョアンナの顔を
まじまじと見ている!
こないだまで“ウザいな~、コイツ…”って扱いだったのにね。

で、マークとジョアンナが初めてベッドを共にした時、
マークが不思議がって聞くんですよね、“WHO ARE YOU?”って。

だってそうでしょう。こないだまで目立たない
ダサダサ女だと思っていたのが、
気付くと物凄い魅力的な女性として傍らにいるんですから。
“君は誰?”って聞きたくなるのも当然ですよね。

で、ジョアンナは答えるんですよね。“SOME GIRL”って。
でも正直そこにいるのはもう“ただの女の子”じゃないんですよね。
演じているのがオードリーだから“妖精”。

いや、そうじゃなくってェ~(笑)。
恋する女の子は強いんです!可愛くだってなれちゃう!
そしてそれまではマークに付いて回るだけだったジョアンナが
マークと対等に話せるようになるんですよね。

さてこの「いつも2人で」、映画の解説なんかに
だいたい出てくるのが
“この映画でオードリーは89着のプレタポルテを着て登場!”
ってやつ。これって考えるとすごいでしょ?
111分の映画で89着!
単純計算で1着あたり約1分30秒の出番しかないんですよねー。
でも長い間出てる洋服もあるし、ということは
一瞬だけの洋服もあるってことで。

まー、なんて贅沢!…って思ってて、
高校卒業した頃に友人の家で友人何人かと
この「いつも2人で」を見る時に“89着も着て登場するんだよ~!”
って話して、実際に数えてみたんです。
そしたら最後まで見ても35着くらいしか出て来ないんですよねー。
あらまー、えらい大恥かいてしまいましたねー(笑)。
これでも1つの映画としては充分多いのですけど、
89着とは程遠いですよね。

僕は1パターンで1着計算にしてましたけど、
シャツ・ジャケット・パンツで3着、みたいに数えないと
いけなかったのかもなーなんて思ってました。

何年か前に知り合いのオードリーファンのMさんが
靴まで入れて数えたそうですけど、
それでも89着には及ばなかったそうです。あとで
“しまったー!帽子なんかも入れないといけなかったのかも!!”
って言ってましたけど。
これはもうソックス・スカーフなんかにいたるまで
数えないといけないのかもしれませんねー。
でもそんなの89着の中に入るんでしょうか?
この89着の根拠がいまだにナゾです。

謎といえば、オードリーが映画を撮る時に、
ほとんど絶対的に優先される事柄で、“順撮り”という
映画の中で起こる順番に撮影していく、というのがあるんですよね。

「戦争と平和」みたいな大作ではさすがにできなかった
みたいですけど、オードリーがその役になりきって
感情移入するために、
順撮りはオードリー映画の必然だったみたいなんですね。
あの「マイ・フェア・レディ」でも順撮りですから。

ところがこの「いつも2人で」に関しては、その構成上、
いったいどうやったら“順撮り”になるのかわからないので、
かなり謎。
1度目の旅の頭から?それとも6度目の旅である
現在シーンのオープニング?みたいな。
当時の雑誌を見ても“ヘプバーンの新しい映画が始まった!”
って載ってる画像は5度目の旅でデビッドと会話するオードリー。
他に載っている画像は1度目の旅でした。
まだ2度目や3度目や6度目の旅は影も形もなし。

これじゃあ全然順撮りじゃあないですよね。
「いつも2人で」は、オードリー映画で撮影順が
とっても気になる作品です。


「いつも2人で」のことは以前に何度も書きましたけど、
また書きますです。

「いつも2人で」ってソフトフォーカスをかけてないんですね~。
「おしゃれ泥棒」や「暗くなるまで待って」の
チャールズ・ラング・Jrってオードリーを撮る時は
丁寧にソフトフォーカスにしてて年が出てないんです。
だからこそオードリーに気に入られて
「麗しのサブリナ」から始まって、「パリで一緒に」とかでも
起用されてますけど、この「いつも2人で」の撮影は
クリストファー・チャリスって人ですよね。
もちろんオードリーとは初顔合わせ。

最初オードリーは初めての撮影監督に不安だったそうです。
でも最初のラッシュを見たときに、
“あら!この人上手だわ!”って気に入ってしまったとか…。

で、ソフトフォーカスにしないのはこの撮影の人の作風なのか、
監督のスタンリー・ドーネンの意図なのか、
オードリーの決意なのかは不明なんですが、
まるっきりオードリー、年をごまかす処理無しですよね。
だから、1回目の旅で、撮影当時37才のオードリーが
18才の女学生やってる時、他の女子大生と一緒にいると
ちょっと無理があるとか言われるんですよね。
僕は全く気になりませんけども。

それで正直女子大生と一緒にいる中では、
オードリーのジョアンナ、パッとしないんですよね。
役柄もそうなってる。
他の女の子より老けて見えるのも効果をあげてます。
若いのに洋服も地味だし、化粧っ気のない、ダサダサの、
暗くて老けた外人さん(いるいる!そういう外人さん!)
の女子大生まんまなんですよね。

アルバート・フィニー演じるマークがジョアンナなんか
まったく“アウトオブ眼中!”で、
美人のジャクリーン・ビセットに粉かけてますし。
ジョアンナがヒッチハイクについて行く!って言ったら
あからさまにマークがヤな顔してますもんね。

ところが実はこの辺からこっそり変わって来てるんですよね~。
6回目の現在の旅の、ジョアンナがメタルドレス着てる時、
マークが建てた家のパーティで、
お喋りオバサンに“美人の奥さん!”なんて言われてる。
あら!?設定が変わってる!
ダサダサ女学生から美人の奥さんに!!
これがまったく違和感なしに受け入れられてる。

公開当時、“女学生は奥様に。それもなんとなく
「奥様は妖精」みたいな感じになってくる”
なんて書かれてましたけどホントですよねー。
いつからこうなったの??

恋をすると女の子って変わるんですよね。
暗い女子大生も、マークとヒッチハイクをするようになって、
なんか表情が明るくなってきてる。
羊のいる所で、またパスポートがない!って
マークが慌ててヒッチハイクで戻ろうとするんですけど、
そこで“マーク!”ってジョアンナが
マークのパスポートを見せてるところ、
一瞬オードリーのバストアップの映像が挟み込まれるんですけど、
そこのオードリーはとても綺麗!
もうダサダサ女学生であることをやめてる!

でもマークが持ってるジョアンナのイメージはもとのまんまだから、
まだこのへんは綺麗になったジョアンナの変化に
気付いてないんですよね。
ジョアンナは“自分”という存在に気付いてもらおうとして
一生懸命なんですけど、
マークはジョアンナの顔を見て喋っててもちっとも気付かない。

ここでちょっと脱線しますけど、
マークがカメラを取り出した時、
ジョアンナは自分を写してくれるんだ!って喜んでたら、
実は“立体”の、主に建物を写すだけって言われて、
ジョアンナは“私も立体なんだけどなー。”って言いますけど、
このセリフ、言ってるのが平面に近いオードリーだから、
なんか見る度に笑ってしまうんですよねー(笑)。

で、ジョアンナの扱いがとっても冷たいマークですけど、
ジョアンナに“あなたが好きだから…”なんて言われると
コロッと態度が変わる。
ここでやっと今のジョアンナをしっかりと見るんですよね。
ジョアンナの美しさにやっと気付くんです。

だから訳もなくマークがジョアンナに惹かれたのではなく、
しっかり理由はあるんですよね。
ジョアンナの美しさに参った!という
男ならありがちなコトですけど(笑)。

                       つづく…

今でも後悔してる「マイ・フェア・レディ」の譜面のこと

高校時代、クラブでヴィオラを演奏している関係上、
楽譜屋に行くことも多かったのですけど、
そのよく行く神戸の楽譜屋さんで、一度だけ輸入版の
「マイ・フェア・レディ」のオーケストラ・パート譜
(演奏者がそのまま弾いたり吹いたり叩いたり出来るように
なっている各楽器別の譜面の全楽器分!)
を見たことがあるんです!

オリジナル・サウンドスコアに基づく物なのか、
アレンジされた物なのか、全曲なのか、抜粋なのかは
今となってはわかりませんが、
表紙にはしっかりボブ・ピークによる「マイ・フェア・レディ」の
あのオリジナルイラストが、ピンクの紙に印刷されて
表紙としてパート譜をくるんでいました。

買おうかどうかかなり悩んだのですけど、
高校生には非常に高い値段(その時の手持ちを全部注ぎ込まないと
買えない値段だったし、その月はそれでなんとかやりくりしないと
いけなかった)、しかも高校ではクラシック以外の曲を
演奏するチャンスもないので
後ろ髪を引かれる思いでその時は諦めたのです。

大学に入ったら団内の身内の演奏会で
そういうクラシック以外のの曲を演奏することもあり、
もう一度その楽譜屋さんに行った時に
“以前見た「マイ・フェア・レディ」の楽譜はありませんか?”
と尋ねたんですけど、“あれはもう絶版になったよ。”
と言われてしまいました。
あ~!ガックリ。

学年別でオーケストラの演奏をする時も、
他の学年が「スター・ウォーズ」のテーマなんかを
演奏しているのを横目で見て、
同じヴィオラの同級生の女の子に“「マイ・フェア・レディ」の
楽譜やったら昔見たことあるんやけどねー”
なんてポロッと言うと、“なんでその時買わんかったん!”
と言われてしまいました。

一時期、神戸に確かに存在していた
「マイ・フェア・レディ」のパート譜、
いったい今頃どこにあるんでしょうねー…。


さて、いよいよオードリーが演じたかった
レイチェルの話にもなっていくのですが、
ベンがカウボーイ達と街へ行っている時に
カイオワ族が攻めてくるんです!
ベンが残して行ったはずの見張りの2人のカウボーイもいません
(後にカイオワに殺されたと判明)。

その時、母マティルダの体調が急激に悪くなります。
たまたま薬草の心得のあるジョージアが家に来ていました。
もちろん全員で応戦。
映画と違って、百発百中では全然なく、
一旦カイオワは引き上げるものの、
引き上げる理由が“馬が疲れているから”とか
そういう理由なんです。

ザカリー家は警戒のため、病気で寝ているマティルダ以外は
ほとんど眠れないという状況が続き、
キャシアスはジョージアをその停戦中に
ローリングス家に送り届けます。
ところが、ザカリー家への帰り道、
キャシアスはカイオワに襲われます!
馬を撃たれ、背中を射られ、馬が倒れる際に片足を潰されます。

死にそうになりながらも、点々とついてしまう背中の
血の痕を利用して、カイオワの裏の裏をかき、
あの手この手でカイオワ軍団のうちなんとか4人倒すキャシアス。
弾丸もなくなった最後は死んだふりをし、
頭の皮を剥がれる時にくるっと体を回して
もうひとりナイフで仕留めますが、
次の瞬間四方八方から切り刻まれ突き刺されて絶命します。

家族を守るために必死で戦うキャッシュ!
なんてカッコイイんだっ!!(泣)
映画のジョージアといちゃいちゃして
家族を残しているキャッシュとはまるで違います。

いよいよカイオワはレイチェルとアンディ
(そして病気で瀕死のマティルダ)だけの
ザカリー家へ攻めて来ます。そう!ベンはいないのです!
すべてレイチェルとアンディだけでやっていくのです!!
映画みたいに槍を投げたり、なんて悠長なことはしてくれません。
銃弾が雨あられと撃ち込まれるんです!!

こちらの銃も全然必中じゃあありません。
ちょっとの場所の違いで殺されたかもしれない
レイチェルとアンディのことも書かれています。
そう、カイオワはもうレイチェルが死のうがどうなろうが
かまわないようです。
もし生きてカイオワに捕まったら、
生かしてはおいてくれるかもしれませんが、
レイチェルの希望なんて聞いてはくれないでしょう。

そしてとうとう逝ってしまったマティルダを前に、
レイチェルは心に誓うんです。
“決してお母さまの美しいお髪を取って行かせませんからね!”
たった2人で守るアンディとレイチェル。
2人はそれぞれ3つも4つもの銃眼を守らなければならなく
なりますが、とうとうアンディも腕の根元を撃たれ、
レイチェルは36時間、ほとんど寝ていない状態でありながら、
たった1人でカイオワ族と対決することとなります。

じっと待つレイチェル。そこで聞こえて来る床下からの物音…。
カイオワは穴蔵から侵入してこようとしている!!
そして少しづつ少しづつ持ち上がる床板…!!!

そうしてすべて終わってからベン(と残りのカウボーイ達)が
帰って来て、銃や家畜によって破壊され尽くした家の有り様を
発見するのです。
ベンは映画のキャッシュのように助けに入ったわけでもないんです。
もうほんとに何もかも終わった後。
累々と広がる死体と血だまりの中の静けさで生きているのは
放心状態のレイチェルと、熱に浮かされうわ言を言うアンディだけ。

後にアンディはベンに言います。
「姉さんは自分の命のために戦ったんじゃない。
俺達の為に戦ったんだ!」

というわけで、原作では最後はレイチェルのための西部劇に
集束していきます。
そう、これこそがオードリーの演じたかったレイチェルなんです!
この原作のままだったら、レイチェルは
“「許されざる者」という設定のお飾り”ではなく、
コメディではない作品では極めて珍しい
“女性が主人公として活躍する西部劇”という中での
ヒロインになっていたことでしょう。

ではいったいどうしてこのような改変がなされたのでしょうか?
これは制作のヘクト=ランカスタープロダクションのせいかと
僕には思われます。
名前の通り、これはベンを演じたバート・ランカスターの
プロダクションでもあります。
このプロダクションはこの時期、「ヴェラクルス」「マーティ」
「空中ブランコ」と次々と名作を世に送りだしており、
波に乗っていました。

ただ、この作品「許されざる者」では最後の戦いで、
その場に居ないランカスターにするわけにもいかず、
また次男キャッシュが当時英雄視されていた
オーディ・マーフィーになったことでさらに見せ場を
作らなければならなくなり…と脚本を作って行くと、
当然削られるのはレイチェルが1人で戦う場面で、
そのためこんな人形のような存在のレイチェルに
なってしまったのでしょう。

そこでレイチェルにも重い意味を持たせるため、
最後に撃ち殺すのを兄にしたり、また製作されたこの1959年頃、
ネイティブ・アメリカンにも配慮して平和的なカイオワ族にしたため、妙に後味の悪い、原作とは別物の「許されざる者」が
出来上がっていったと思われます。

ジョン・ヒューストン監督が「仰々しい」、
リリアン・ギッシュが「もっとオードリーを活かせたはずだ」
と言ったというのは、原作との差異が著しい
この脚本に大きな原因があったようで、
オードリーファンの僕としては、
原作のように活躍するレイチェルが見てみたかったです。

そうすれば現在の評価はどうなっていただろうと
つい思ってしまいます。
おそらく「尼僧物語」に匹敵するような第二期オードリーの
代表作になったかも!なんて思ってしまうんです。
アカデミー賞だって手中に収められるくらいの!
名作に成り損ねた名作、というのが
この「許されざる者」に与えられる評価なのかな~、という…。

「許されざる者」撮影中、次にオードリーはヒッチコックの
「判事に保釈なし」に出演の予定でした。
この決して作られることのなかった幻の映画のお話は
いずれまたどこかで…。

そしていよいよ!役柄の特異さは無くても、
“オードリー・ヘプバーン”という個性が際立つ、
華麗なる第3期の幕開け=「ティファニーで朝食を」に
オードリーはエンジン全開で入っていくのです!

今度は原作「許されざる者」との相違について、です。

このレイチェルという役をオードリーが演じたがった、
というエピソードが残っている、ということは既に書きましたし、
マティルダ役のリリアン・ギッシュが
「もっともっとレイチェルの役はよくなったはずなのに、
監督はオードリーを活かし切っていない!」
ということを述べたと言うのも伝わっています。

確かにこの映画のオードリーはあんまり活きてません。
でも原作を読めば、いかにレイチェルが凄い役であるか、
というのがよくわかります!
そうそう、この原作、途中から読むのを止めることが
できなくなります!
(原作はかつて角川新書として発売、現在は絶版。
手に入れたい方は古本屋さんで探してください。)

まず、アラン・ルメイの原作を読めば
当時のテキサスで生きていくことがいかに困難かがはっきりします。
さらに人種差別云々の問題を
映画ではいかに注意をはらって扱ったかがよ~~くわかります。
あの映画で“人種差別が…”なんて言うのは
全くあまっちょろい考えだったことに気付くでしょう。

原作では人種差別、という概念ではなく、
単にものすごい悪としてカイオワが描かれます。
食うか食われるか。
そういう状況で白人達は生きていることになっています。
少しでも安全をおろそかにした者は殺される…。
殺されるのが日常茶飯事、そんな時代なのです。

たとえば、たった1台の馬車で呑気に移動した者や、
家の作りを甘く造ってしまった者、
そういう者達はみんな生きたまま頭の皮を剥がれ、
腕や足を切り落とされて惨殺されるのです!
たとえば、映画でベンは家の屋根を焼きますが、
あんな燃えるような屋根を造ったら、
原作では1発でカイオワにやられます。
カイオワだってバカじゃないんですから。

隣のローリングス家のお母さん、
ヘイガーがカイオワに憎悪を抱くのにもちゃんと根拠がありました。
子供の頃家族はみんなカイオワに惨殺され、
大人になった自分もカイオワに陵辱され捕虜にされる。
同時に捕虜になっていた別の女性は
歩けなくなったところで頭の皮を剥がれ、
その女性の3才の男の子は足を持って川に放り投げられ、
溺れかけている所をまるで遊びのように3回も弓で顔を射られて
殺され、それを必死で止めようとしたヘイガーは
足をくくられて馬で引きずられ、足が不自由になってしまった…
ということが書いてあるのです。

さらには娘には映画でのジョージア以外にもうひとりおり、
その娘は結婚したばかりのダンナやお付きの者と馬車に乗って
家に帰って来る途中でやはり全員惨殺されてしまいます。
これだけ理由があれば、カイオワを憎んで当然です。
そりゃあ許せないでしょう。

本当にカイオワがそうだったかは知りませんが、
少なくともこの小説ではそうなっているのです。
当然ベンは注意を怠らない人間で、ローリングス家とは別に
雇っているカウボーイ達が12人おり、
孤立した時、家族だけしかいない、という
無防備な状況ではありません。

また、オードリーが“インディアンに見えない”という件ですが、
これまたカイオワ族はいろんな所から
女や赤ん坊をさらってきているので、
純粋なネイティブ・アメリカンばっかりではない
ということも語られます。
オードリーが白人との混血に見えても、それはそれでいいようです。
実際原作にはレイチェルの目は光の加減で黒くなったり
緑になったり、あるいは青になったりすると書かれています。
まさにオードリーそのものの目!なんです。

エイブ・ケルシーも原作ではさらに卑怯者として描かれます。
彼の言う“さらわれた息子”の話も勝手な思い込みで、
現実には何人もの近隣の人間がエイブの息子セスが殺され、
埋葬される所を見ています。
にもかかわらず、“セスらしき白人がカイオワにいる”と聞いて、
さらわれて生きていると信じ込んだエイブは
生きていると言って歩き、
真相を知らない、他の土地からやってきた
ベン達の父であるザカリーに協力を求めます。

エイブを信じたザカリーは一緒にカイオワを追って、
カイオワの襲った村の跡へ行き、そこで見つけたのが
カイオワが忘れて行ったレイチェルだった、という訳です。
そして、結局カイオワにいたのは
セスとはまったく似ても似つかない、年令も合わない
“セッツ”という白人の少年で、
彼は赤ん坊の時からカイオワにいたため
すっかりカイオワに同化しており、
むしろさらに残忍な人間として描かれます。
後にザカリー家を襲う時には首謀格のひとりであるという設定です。

ザカリーは無駄足だったと諦めるのですが、
“生きているセス”を連れ帰らないことで逆恨みしたエイブが
“インディアンの娘を返さないから息子が返してもらえない!”
とザカリー一家を悪く吹聴し始める、
ということになっていくのです。

しかもまだセッツをセスだと思い込んでいて、
カイオワにくっついて回り、散々いいように使われている、
というわけです。
ローリングス家の娘が殺されるのも、
エイブがカイオワに娘が通るということを教えたからであり、
最期はマティルダが怒りで縄を切るのではなく、
保安官にきちんと処刑される、ということになっています。

だいたいマティルダの性格も、映画のように勝ち気ではなく、
むしろエイブが処刑される時には可哀想だと泣いているくらいで、
最期も撃たれて死ぬのではなく、病気で静かに死んでいきます。

さて、他のキャラクターもストーリーもだいぶ映画と違います。
ベン、キャシアス、レイチェル、アンディの年令は
それぞれ24才、21才、17才、15才、ということになっています。
まあベンは家長のため30才くらいに見えるとはなっていますが、
うーん、映画のベンとキャシアスはちょっと苦しいなあ…(笑)。

もっとも、映画では末っ子アンディが19歳という設定ですから、
当然他の兄弟も年齢的にもっと上なんでしょうけどね。

さらにキャシアスは原作ではかなりのインテリのように描かれます。
しかも背もスラッと高いそうですので、
原作でのイメージはすっかり優男。
映画の配役とイメージ一番違うのがこのキャシアス。

映画ではレイチェルの実の兄になっているカイオワも、
実は原作では単に“同族”ってだけ。
しかもあんな映画のような立派な人間としても描かれていません。
レイチェルもこの親戚を見て、むしろ反発を覚えるくらいです。
3人の平和の使者が来た際も、
まっ先に殺されるのがこのレイチェルの同族なのでした。

なので、映画でレイチェルが兄を殺すという設定にしたのは、
映画に重い意味を持たせようとした映画制作者側のオリジナル、
ということになります。


さて、この「許されざる者」、カイオワ族に対して
人種差別を行っている、という意見を書いてある文章を見かけます。
1960年にもなってこんな認識しかできてない、とかね。

僕の意見は全く違って、むしろそういうことに疑問を投げかけて
いるのが映画「許されざる者」じゃないのかなーって
思うんですけどね。

だって、レイチェルがカイオワの血を引く娘だと知って、
人種差別をするのはローリングス家を始め白人の隣人達で、
その彼らに背を向けて孤立して
「許されざる者」というそしりを受けてでも、
本当はカイオワ族であるレイチェルを守る!という一家、
という設定なのに、なんでこれが人種差別の映画なんでしょうね?

確かに次男キャッシュはもともと人種差別がひどく、
今まで妹として育ったレイチェルなのに、
カイオワの血が入ってるとわかった最初は、放り出してしまえ!
みたいな発言をしますけど、結局助けにやってきますもんね。

だからこれはカイオワ族がインディアンだから悪である、
という構図には全然なってませんよね。
悪はレイチェルの出生の秘密を知って村八分にする隣人達であり、
ザカリー一家は愛する「家族」を守るために当然のように戦う
ごく一般の家庭。
そのレイチェルを取り戻しに来るカイオワ族だって、
親戚がいるから返して欲しい、という
ごくごく普通の考えのように思えるんですけどね。

ただ、「レイチェルはお返しします。でも時々は遊びに来させて
くださいね。」「いえいえ、こちらこそそちらで育ててくださいよ。
たまに顔をみせてくれたらいいですから」
なんて悠長なことを言ってられるような時代ではなかった、
ということで。まだまだこの時代にはネイティブ・アメリカンと
白人には越えられない溝があった時代です、
ってことを状況として見せているだけなように思えるんですけどね。

人種差別をしているのではなく、
人種差別について問いかけている映画だと思うんですけど。
だからこの映画が訴えて来るのは、
どうしようもない選択を迫られた時、
“あなたは何を選びますか?”
という点であるように思うんですよね、僕は。

あなたが隣人の立場だったら?
あなたがザカリー家の兄弟だったら?
あなたがマティルダだったら?
あなたがレイチェルだったら?みたいな。

この映画には不思議な役が出てきます。
ジョン・サクスン演じるジョニー・ポーチュガル。
ジョン・サクスンの訃報が小さく5行くらいで新聞に載った時、
代表作の1つにこの「許されざる者」が載っていました。
その時僕はアンディの役の男の子かと思ったんですが、
なんと!ジョニーの役でした。

だって、映画を見ればわかると思うんですが、
明らかにジョニーよりも末っ子アンディの方が役が大きいです。
ジョニーなんて途中で消えちゃうし。
こんな端役が代表作だなんて!って思いましたが、
当時ジョン・サクスンはかなり期待されて人気もあった
新進スターだったんですよね。昔の雑誌を見て知りました。

なんで途中で消えちゃうのかな?と思いましたが、
ローリングス家と袂を分かつ時にだーれも連れていきませんから、
その時に出番が終わったんですね。
なお、彼がレイチェルの髪に触った時にベンが殴りつけますが、
これは人種差別では無く、単にかわいい妹レイチェルに
悪い虫を付けないようにする、というベンの考えですよね。
ちょっと他の男共に対する見せしめっぽいですが…。

あと、公開当時のパンフレットで書いてありましたが、
映画化する際、最初のアイディアではこのジョニーは、
実は名前が表わすようにポルトガル人などの混血で、
ネイティブ・アメリカンでないことがわかり、
最後レイチェルはザカリー一家の迷惑にならぬよう
彼と結婚する為に逃げる、という設定だったそうです。
なんちゅうお気楽な案なんでしょうねー(笑)。

戦闘が始まる前だったらその後の話が続かないし、
まったくの肩すかし。
逆にマティルダや多くのカイオワ族が死んだ後に
のんきにジョニーと出ていったりしたら、
絶対このレイチェルって役を許せないでしょうねー。
たとえ本人に罪はないにしても逃げるなんて!
お前の為に何人死んだと思てるねん!みたいな。
それこそ「許されざる者」だっ!!ってことで。

さてこのジョニーのジョン・サクスン、
配役の話をもらった時はオードリーと結婚する大きい役だし、
ということできっと大喜びだったでしょうが、
結果はこんな小さな役…。しかもそれが代表作扱いだなんて、
なんかとっても可哀想です。

さてさて、この映画のオードリーですが、
確かに役柄はカイオワの娘だし、
このレイチェルのせいで一家が孤立し、
襲撃されるという大事な役なんですけど、
いまいちオードリーが動いているようには思えないんですよね。

第1期のオードリーのように“誰かが現れるのを待っている”
ということでもなく、ひどい言い方をすれば、
“そういう出生の秘密を背負って、単にそこにいるだけ”って感じ。
こんな程度の役で本当にオードリーは演じたかったのかな~~??
って正直疑問でした。

この問題が氷解したのは原作を読んでから。
“なるほど、これをオードリーは演じたかったのかーっ!”
ってわかりました。次はそのお話を。

今回は映画「許されざる者」について。

この映画、第2期オードリーの作品ですよね。チャレンジオードリー。
西部劇で、ネイティブ・アメリカンのカイオワ族という設定。

でもファンデーションを濃い目にしたという程度では
全然インディアンには見えないという意見多数。
そのへんは原作との対比で検証するとして、この作品、
オードリーがすごく演じたかったという逸話が伝えられています。
で、それに見合った作品だったんでしょうか?

なんかオードリーは確かに「許されざる者」という
レッテルを貼られる出生の秘密を持った少女ということで、
第2期のオードリーが好みそうなドラマティックな役柄です。
でも…できあがった作品を見ると、
どうもいまいちオードリーが活きている、
とは言えないような何かを感じるんですよねー。

作品としての出来はどうだったんでしょうか?
監督のジョン・ヒューストンはこの作品を大っ嫌いだそうです。
自伝でも、自作であるにもかかわらず述べられているのは2ページだけ。「脚本に関して会社に妥協してしまった。誰も彼もが仰々しい。」
ということで…。

ただ、この監督には一般的にはもっとひどい駄作が
いくつもいくつもあるそうで、
名作と駄作のブレが非常に激しかった監督さんなんですよね。
「許されざる者」は本当に中庸ということで、
この裏話だけだと作品がかわいそうですよね。

映画評論家、双葉十三郎さんの採点では70点。
見ておいていい作品の上、という扱いです。
ということは決して悪くない。
作った監督は愛着なくても、西部劇の歴代ベスト50くらいには
入るかな?(微妙)ベスト100だったらまあ確実に入るでしょう!
というくらいの良い出来ではあるようです。
僕も作品全体での出来は悪くないと思ってます。

さて、作品を見ていきましょうか。
テキサスで平穏に暮らしているザカリー一家は、
狂人のエイブ・ケルシーという老人の“本当の話”によって
レイチェルの出生の秘密を暴かれて孤立してしまい、
やがてエイブがけしかけたカイオワ族がレイチェルを取り戻しに
ザカリー一家を襲う、ということになってます。

で、この作品の後味を悪くする原因の1つがまずここに出てきます。
狂人の言っていることが正しい、という設定であること。
レイチェルの出生の秘密もそうですけど、
エイブの息子の話も否定されてませんよねえ、これ…。

たしかに、カイオワ族をけしかけたのは事実だし、
そのせいで隣人であり、レイチェルの婚約者だった
チャーリー・ローリングスが殺された、というのも事実で、
それはそれで絞首刑になる要素十分なんですけど、
最後に縄を切ったのがマティルダ・ザカリーですもんねー。
しかも怒りにまかせて、って感じだし…。

もうひとつはレイチェルが血のつながった実の兄のカイオワ族を
撃ち殺すというラスト。
すでに心はザカリー家の一員であるという認識もあるし、
もしそうしなければ弟として暮らしてきたアンディが殺される
という事もあるわけで、銃を撃たなければならないという
必然はわかるんですが、あの実のお兄さん、
とてもいい人そうに描かれてますもんね…。重い結末です。

そんなこんなで、果たしてこのエンディングで良かったのだろうか?
という思いを誰しも感じるんじゃないかなーと思います。
いくら最後のシーンで爽やかに雁の群れを青い空に飛ばしてもね。
あんまり見終わって爽やかじゃない。

でも実はこれ、原作にはない設定だったようなんです。
あと、途中で、平和の使者として来た3人のインディアンの1人を
長男ベンが末っ子のアンディに“誰でもいいから1人殺せ!”
って言いますけど、
これはカイオワ族はレイチェルを連れ帰るまで戻るつもりが無いし、
レイチェルも自分さえいなくなればザカリー家は安全だ、
って思って出ていこうとしてるから、
レイチェルが出ていかないようにする唯一の手段だったわけで、
話の進行上まあ仕方ないかなあ、と。

ここは100%ではないにしても、納得できる箇所なんですよね。
“人を殺してるのに、ザカリー家のカタを持つなんて!”
って思いますか?もし“レイチェルは返しませんよ。”
って平和的に言って、カイオワ族が表にいつまでもいるのを
無視して生活しようったって、そんな風になると思います?

事実隣家のチャーリーなんて何もしてないのに殺されてますからね。
一見平和的に見せてますけど、そうじゃないぞってことは
既に伏線としては張られてますよね。
この時代のテキサスがのんびりした事を言っていては
生きていけない環境だった、ってことは
おそらくアメリカ人の中では周知の事実であるんだと思います。
日本人である僕らはそういうことを知らないだけで。

さて、この作品についてよく言われる人種差別の問題について。
これは次に述べることにします。
それとですね、この映画を見ていて思うのは、
ガブリエルの志願動機がどうも尼僧では無かったような気がして
しかたないんですよね。
ガブリエルの求めていたのは、尼僧そのものではなく、
尼僧になることによってコンゴに行くことのできる看護婦、
だったように思えるんです。

だからフォチュナティ医師に“君は他の尼僧と全然違う!”
なんて言われているんじゃないかなーって。
もちろん本人にはそんな自覚はなくって、
ひたすら“良い尼僧でありたい!”と思い続けてたでしょうが、
どうも根本が違うように僕には思えます。

最後の方で、地下組織を世話した見習い尼僧のリザに
“あなたは良い尼僧になれるわ。”とシスター・ルークが言いますけど
(どうみても僕はそうは思えなかったんですが)、
おそらくリザは「尼僧でもある看護婦」ではなく、
「看護婦でもある尼僧」になりたがっていると
シスター・ルークは見抜いているんだろうなーって思います。

とにかく、シスター・ルークが「尼僧」というものから
どんどん乖離していく自分(ガブリエル)が抑え切れなくて、
修道院を出ていくんだろうなー、
だって自分が求めているものと違うから、みたいな。
下世話な言い方ですけど、
あらまー、転職する一般人そのものでないの、って感じ。

ちなみに、この作品について書かれてある、
ジンネマン監督の自伝には興味深い裏話がたくさん載っています。
その中で一番驚いたのが、これは17年にわたるお話であること。
監督自身が“私のつまずいたところ”というように、
僕もせいぜい5~8年くらいの話かと思ってしまいました。
“ハリケーンが来ようが、吹雪が来ようが、
主演女優を美しく見えるようにする”というのが
メイキャップ係やヘアデザイナーの“自動的反射行動”だそうです。

他にも、ジンネマン監督はヨーロッパの部分はモノクロで、
アフリカの部分をカラーで撮りたかったとか。
もともとお堅い話なので、このうえモノクロだったら…と思うと、
反対してオールカラーにしてくれたジャック・ワーナーに感謝!です。

おもしろいのは、撮影合間に尼僧達がタバコを
スパスパ喫っているのを見て、
撮影を見に来ていた黒人たちは「自分の目が信じられなかった」。
ところが誰かが“彼女達はアメリカの尼僧だから”と言うと、
“ああ、そうか。”と納得したこと(笑)。

それと、この作品の画像で、土砂降りの雨の中、
神父の隣でシスター・ルークが嘆いており、
周りには正面を見つめる黒人達、
というものをたまに見るのですが、そんなシーンは映画には無く、
なんだろう?と思っていました。

これも自伝でわかりましたが、どうやら、3人の男が土砂降りの雨の中、川にはまり込み助けを求めているが、雨で急速に水かさを増す川。
岸辺からはどうしようもできず男達はみるみる川に飲み込まれていく、
というシーンがリハーサルまで完璧に
行われていたことがわかりました。

実際には翌日川の水位が急激に下がっており、
仕込んでおいたリフト・セメント・金網などが丸見えになって、
そのシーンは結局撮影出来ずじまいだったことが書かれていました。
おそらくその時の岸辺の写真なんでしょうね。
はっきりしてよかったよかった!

さてその後、シスター・ルークがもう一度行きたい!と切望した
ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)がどうなったか、
御存じですか?

フレッド・ジンネマン監督の自伝で述べられていたのですが、
映画の撮影に協力してくれた白人の宣教師達。
自伝の最後にカメラの方に向かってお別れの手を振る
たくさんの人が写っているのですが、映画の撮影が1958年。
その1年後にベルギー領コンゴは独立戦争が起こり(1960年独立)、
その写真に写っている人のほとんどが命を落としたそうです。

そして現在。金・ダイヤモンド・コバルトと
資源の豊富なコンゴ共和国は
周りを囲む9つの国の思惑が複雑に絡み合って、
今でも一般市民・国連関係者までをも巻き込む
虐殺・誘拐・内戦・クーデター・国境の紛争が絶えないそうです。

コンゴでは少年でも兵士として戦争に参加し、
少女は暴行をはたらかれたりしているそうです。
それに治安の悪さと共に、
度重なる戦闘による生活環境の悪化も大きな問題で、
今はペスト・髄膜炎・E型肝炎も流行っており、
貧しい国民は心も体も疲弊しています。

コンゴの大統領が言っていたそうです。
“もし平和が訪れるなら、
コンゴの全ての資源と引き換えにしてもいい!”

シスター・ルークが愛した、オードリーが愛したコンゴは今現在、
このような状態なのです。
黒柳徹子さんがコンゴにユニセフ親善大使として訪れたようですが、
もしオードリーが今も生きていたら、
それこそきっともう一度コンゴの地を訪れていたことでしょう。

“今こそ私の出番だわ!”って。

今回はなんとびっくり!
いや、びっくりすることでもないかもしれませんが、
いつかは書くつもりでしたけど、このお堅い作品が書けるとは、
正直僕自身が思ってなかった「尼僧物語」について!
(一番びっくりしてるのは自分だったりする)

「尼僧物語」って、最近では
“後年のユニセフで活動するオードリーのよう”だとか、
“オードリー作品で一番志が高い”なんて書かれ方する上に、
本当にお堅い作品じゃないですかー。
第2期オードリーの最高傑作ですし、
アカデミー賞にノミネートもされてるし、
正直「文章力のない」&「高尚には程遠い」僕には
手に負えない!って感じで、
エッセーを敬遠してたのは事実です。

ところがこないだ見直して気付いたのは、
ありがたくて後光が射していて、
まるで巨人のようにそびえ立っている!ムリ!絶対ムリ!!!
と思っていた「尼僧物語」が、等身大で現れた!ってことなんです。
「尼僧」降臨!みたいな。
あ、これなら凡人の僕でも書けるかな、という(笑)。

さて、「尼僧物語」を最初に見た時に僕が思った事、
“なんて修道院ってがんじがらめで閉塞的なんだろう!
こんなトコちょっとだけでも居るのイヤやし!
よー志願するな~!”って、あなたも考えませんでしたか?

確かに、朝は早いし私語も基本的には禁止、
鐘の音ですべての事は中断、
家族にも会えないし、事情がないと外にも出れない、
“慈悲の心で”人を告発しないといけないし…
などと、数え上げればキリがないくらい
多くの規則に縛られてますよね。

最初に見ると、ここが息が詰まる程苦しく感じるんですよね。
でも、実際には僕らもなんだかんだで縛られてること、多いでしょ?

イヤでも朝起きて会社や学校に行かないといけないし、
一人暮らしや親とは別居だったりすると、親に会うのなんて
盆と正月、それとゴールデンウイークくらい?
「人を告発」の件でも、シャバの生活で
人に注意するか告発するかなんてこと、
自己責任ですから、言うかどうしようか悩むでしょうけど、
修道院は“告発しなければならない”という決まりがあるので
ある意味楽かもしんない。

だからよく考えると何も特別なことは全く無い、
大なり小なり、みんなこういう生活なんですよね~。
まあ、私語がダメとか苦しいは苦しいでしょうけど…。

で、ガブリエルは自ら志願してますから、
正直、そんなところに迷いや抵抗はないんですよね。
ガブリエル=シスター・ルークがどうしても乗り越えられなかったのは
“無条件の服従”!これですよね。
どうしてもシスター・ルークは自分の感情を抑えることができなかった。
特にお父さんの件ではもう自分を偽ることができなくなってしまった!

最初に修道院長が言いますよね、
「私達は騙せても、自分と神は騙せません。」
これ、ものすごい真実の言葉ですよね。
僕もこの言葉、よく自分に言い聞かせてます。
そんでもって、これが結局シスター・ルークが還俗することに
なってしまう引き金にもなってますよね。

他にも、いろんな一般人に近い尼僧の事が出てきます。
たとえば、シスター・ルークに「テストで落ちなさい」
と指示するシスター、見ていると確かに非常にムカつきますけど、
これ、このシスターは全然悪気があるわけじゃあないんですよね。
むしろシスター・ルークの為を思って言ってる。

ほら、悪気はないけど、間違ったアドバイス、
あるいは行動する人って、
結構そこら中にいるじゃないですか。僕ももちろんその1人ですし。
実際シスター・ルークも精神病院で似たようなことやらかしてますよ。
よかれと思って、決まった手順を踏まずに
“大天使”に水をあげようとして襲われています。

シスター・ルークは“謙譲の心が学べない!”って苦しみますし、
一般社会とは関係ないような事件にみえるんですけど、
これってかなり僕らに近いんじゃあないかなーって。

結局、尼僧になったからといってすぐに変わるわけでもなく、
やっぱ人間のまんまで、
むしろ尼僧になってからの修練が大変なんだろうなーって思います。
そこがその後のシスター・ルークの苦悩なわけで…。

ありゃ?これってなんか「いつも2人で」と一緒じゃない?
一般人と結婚したその後が「いつも2人で」で、
神様と結婚した尼僧のその後が「尼僧物語」、みたいな。
チャレンジ・オードリーの第2期だからそのへんにいる一般人ではなく
尼僧、という「特殊形態」をとってるけれど、
本質は世間でも一緒ちゃうか?みたいな。(つづく) 

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