FC2ブログ

リンク


カテゴリー


最近のコメント


プロフィール

みつお

Author:みつお
オードリー・ヘプバーンのファンです。最近は色々とオードリーに関して調べています。
一番好きな映画は「いつも2人で」。
どうぞよろしく!
別のブログでオードリーグッズの紹介もしています。
リンクで行ってみてください。
なお、画像や文章の無断転載はお断りします。

©おしゃれ泥棒 オードリー・ヘップバーン!by みつお


最近の記事


アクセスランキング

[ジャンルランキング]
映画
771位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
映画俳優
28位
アクセスランキングを見る>>

FC2ブログランキング


ブログ内検索


月別アーカイブ


ブロとも申請フォーム


上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
T064_1.jpg

 1950年代後半、オードリー・ヘップバーンの異父兄が横浜に住んでいたことがわかっています。

 これは僕は最初はなんで知ったのでしょうか?なんだか覚えていませんでしたが(後述)、記憶には刷り込まれていて、そのオードリーの兄を頼ってオードリーの母のエッラが1957年に来日したこと、母が松竹セントラル劇場で「昼下りの情事」を観たことはしっかりずっと覚えていました。

 2000年代になって手に入れた、1957年初公開当時の横浜の松竹ピカデリー劇場独自の「昼下りの情事」のパンフレット(昔は大きな劇場では劇場独自の映画パンフレットを製作していた)ではその母の様子がもっと詳しく書かれていました。

 “東京の松竹セントラル劇場でのロードショーもまったく人気が出ていて、十六日の昼二日目には、オードリー・ヘップバーンのお母さん、エラー・ブァン・ヒームストラーさん(横浜に滞在中)がヒヨッコリ顔をみせて、二階の指定席でじっくり鑑賞した後、観集に紹介された。この日女優の加賀ちか子さんから花束を贈られ観客の拍手にこたえた。
 オランダ貴族らしい上品な態度で、娘の映画はよく見ますが批評めいたことは一切いわないことにしていますと語った。”
(漢字や表記の仕方や日本語の使い方の間違いも含めて、印刷されている原文のままの文章)

 さて、もうだいぶ前ですが、ネット社会になってからふらふらとネットサーフィンをしているとオードリーの兄が日本にいたことについて書かれているサイトを見つけました。
 ところがそのサイトではネットでも長兄のアレクサンデルだったのか次兄のイアンだったのかがわからない、というのと、住んでいたのは練馬だったとか、記事が進むにつれて結局イアンの方だろうということになっていました。

 そのサイトでは僕が2007年に「オードリー・ヘプバーンといつも2人で」の方で書いた上記の「昼下りの情事」横浜ピカデリー版パンフレットがコメントのリンクで貼られていて、そこでもオードリーの兄がどちらかがわからない、とされていました。

 そのサイトは2010年を最後に更新が途絶えていて、残念ながら連絡のしようがありませんので、もっと詳細な話を伺うことはできませんでした。

 ちなみにオードリーには二人の異父兄がいます。
 長兄はアーノルド・ロバート・アレクサンデル・クアレス氏、次兄がイアン・エドガー・ブルース・クアレス氏。
 さて、日本に来ていたのはどちらなのでしょうか?

 実はその時には僕はもっとしっかりした証拠を持っていて、日本に来ていたのは長兄のアレクサンデルの方である、というのは掴んでいました。

ENT575H.jpg

 その証拠となるものは1957年5月号の“映画の友”誌
 そこでは当時日本に居た長兄のアレクサンデル氏本人がA・R・A・クアレスですと名乗って「映画の友」誌のインタビューに日本語で答えています。写真付きで。

 そこで語られていたのは、私は横浜に住んでいる、ということで上記のサイトの練馬は全く関係ありませんでした。
 おそらく噂話が一人歩きしたのだろうと…。
 家族構成もアレクサンデル氏とは全く違うようですし。

 もしかしたらオードリーの長兄が日本から離れた後に後任でやって来た方だったのかもしれませんね。
 それでオードリーの兄という尾ひれが付いたのかもしれません。
 当時外国人はとても珍しかったであろうと思われますし。
 (実際、そのブログの中でも、外国人の女の子を“オードリー・ヘップバーン”だと思い込んでいる子供の話が出て来る)

 さらにアレクサンデル氏は自分が販売部長であると語っています。
 来日は1954年12月。そこから9ヶ月の日本語の特訓を受けたことも答えていました。
 NHKの「私の秘密」というクイズ番組にも出演したことも書かれていました。
 (さらにいうと、アレクサンデル氏はオードリーのことを“オードリーさん”と言ってます。)

maypmhみ

 これは2014年に日本で劇場公開された「マイヤーリング」のパンフレット用のエッセイを2013年9月に映画会社から依頼された時にもハッキリ長兄のアレクサンデル氏が横浜にいた、と書きました。

 さてさらに最近になって、やはりネットサーフィンで「横浜歴史さろん」というサイトでカセイジンさんという方がオードリーの兄について書かれているのを見つけました。

 そこでは横浜にいたのはイアン氏で、シェル石油で支社長をしていて、1953年に入社したカセイジンさんのお父さんの英語の新人研修をされた、ということになっていました。

 えーっ、これほんと?アレクサンデル氏の間違いじゃないの?次兄イアンが日本に居たなんて聞いたこともないよ〜!しかも支店長??と思って直接そのサイトにメールで問い合わせました。
 もしイアンがアレクサンデルと一緒に来日していたなら、それはそれでスゴイ発見です。

 ただし、練馬にいたというサイトでも支店長だと書かれてましたが、支店長は多分に眉唾物だと思っていましたので、こちらは昭和シェルにも問い合わせました。もし支店長クラスなら資料があるのではないかと。

ENT575C.jpg

 さすがに1950年代では古すぎて昭和シェルでもわからなかったのですが、いくら当時は日本が下に見られていたとはいえ、1953年当時だとオードリーより5歳上のイアンならまだ29才。その年齢で支店長はほぼ100%無いですね。
 長兄のアレクサンデルでも33才。やはり支店長には無理がありすぎます。

 特にオードリーの兄達は戦時中にイアンはナチスに捕らえられていたり、アレクサンデルは地下活動をしていたので、オランダが解放された1945年にすぐシェル石油に勤務したとしても8年で支店長は無いと思われます。

 さて、丁寧に書いていただいたカセイジンさんから帰って来たお返事ではお父様から聞いたのは姓がバナレス・クオレスということで、実際にはイアンだとは語られていなかったということでした。

 また、53年にはアレクサンデル氏は来日すらしていなかったのですが、それはお父様が53年入社ということと、“英語の新人研修”というだけで年度はわからなかったとのこと。

 これはお父様の英語の研修は53年ではなさそうですが、55年頃であっても、オードリーの兄に英語を教えてもらえるなんて、これ自体は凄いことですよね!

 のどかな1950年代の横浜で、オードリーの本当のお兄さんにどこかの研修所で英語を教えてもらってる、なんて想像しただけでもホワーンとします。

 さて、支店長だったという部分ですが、1953年当時のことではなく、こちらは別の元になった資料があったということで、その新聞に載った資料を見せていただきました。

 元になったのは2002年3月2日付朝日新聞朝刊第2神奈川版。そこでは西丸與一さんという法医学者の方の思い出話が載せられています。

201808012141392c3s.jpg

 こちらから話が膨らんで、「横浜歴史さろん」さんの方でも楽しい記事をということで、もしオードリーが1970年代に来ていたら?とカセイジンさんの文章が載ったそうです。

 さて、西丸與一さんの文章ですが、こちらはご本人と連絡を取る手段が(手を尽くしましたが)わからないので確認のしようがないのですが、いくつか大きな疑問点があります。

 2002年の25年以上前となると、最低でも1977年以前の話になりますね。

 でもオードリー・ヘプバーンの来日ですが、1983年が最初です。
 1977年以前に日本に来た、ということは当時の映画雑誌でも全く語られていません。

 もしかしてお忍びで?とも思えますが、当時のオードリーはリアルでとても日本で人気があったので、初来日なのにとてもとてもお忍びで来れるとは思えません。

 もっと決定的なのは、1983年の来日前(2月2日)に雑誌“マリ・クレール”誌で3pに渡って受けていたオードリー自身のインタビューでの発言。こちらも手元に持っています。

MC83RN1s.jpg

 インタビュアー:あなたは今まで、日本に一度もいらっしゃらなかったでしょう?
 オードリー:ええ、何度もご招待を受けながら、一度も実現できなかったのです。

 他にも個人的な資料なのですが、以前こちらのサイトに来ていただいた事のある方から、1983年の来日前に海外の空港でオードリー本人と会った方とメールを交換した事があります。

 その時にオードリー自身が “今度4月に日本に行くのよ。初めて日本に行くの!スゴく楽しみ!”と言っていたという事実。その方にその時オードリーと一緒に撮った写真も見せていただきました。

 オードリーは嘘をつかない人なのですが、オードリー自身が日本には一度も行ったことがない、と2度も断言しているのです。
 もし過去にでもお忍びで兄に会いに来ていたら、その時のことを語っていたでしょう。
 ということはやっぱりオードリーは83年以前には来日していない、と結論づけていいと思います。

 1983年に初来日して奈良ホテルや京都に行った際にも、オードリーは日本人の歓迎ぶりや礼儀正しさに感激しています。

 その時のオードリーの反応なども奈良ホテルの従業員の方や、オードリーの次男のルカ・ドッティ氏のオードリーの伝記によって語られていますが、やはりそこでのオードリーは“初めて”を体験している人の反応です。

AAHH.jpg

 その時の日本旅行(1983年時には家族揃って日本に来ていた)は後々オードリーの家庭でもずっと語られるほどオードリーにとってもルカにとっても思い出深いものとなったようですが、そのルカの伝記でもオードリーがそれ以前に日本に行ったことがあるとは書かれていません。

 さらに、1971年にオードリーは日本の「エクスラン・ヴァリーエ」のCMに出ていますが、撮影は当時住んでいたローマ。この時のインタビューでも「いつか日本に行きたい」と語っているので、やはりそれ以前には無かったこともわかります。
 
 それにこの西丸氏の文章ではオードリーの兄は “ヘプバーン氏”と書かれていますが、オードリーの兄はオードリーの異父兄ですから、ヘプバーン姓ではありません。

 アレクサンデル氏は“映画の友”誌でも自分を名乗る際には “クアレスです”と語っているように、ヘプバーンなどと自分のものでは無いオードリーの父方の姓のヘプバーンを名乗ることなど有り得ないのです。

 さて西丸氏の文章が作り話や思い違いではなく真実だったとすると、唯一可能性があるのが1959年。

 この年、オードリーは「緑の館」公開の宣伝の為に5月に来日する予定がありました。
 ここなら西丸氏の“25年以上前”という日付にも、離れているものの合致します。

ETARN59s.jpg

 ただし、1959年は1月から撮影に入っていた西部劇の「許されざる者」でオードリーは落馬。腰を骨折してしまい映画の撮影が延びてしまいます。4月にクランクアップしますが、腰のためにコルセットはつけたままで撮影しており、当然まだ無理できない状態。さらに撮影後に当時身籠っていたお腹の赤ちゃんを流産してしまいますし、その後には再度妊娠しています。
 結局どのタイミングでも無理はできないということで日本行きはキャンセルになってしまいます。

 この時期ならオードリーの兄のアレクサンデルもまだ日本にいるでしょうし、オードリーが来る予定があった、ということにも無理がありません。ただ、実際には来日はしていませんが。

 それと、70年代後半だとそこまでオードリーの兄が日本にいたということになってしまいますが、それもまた無理があります。

 これは1970年代に出版されたオードリーの2冊の写真集、「カタログ オードリー・ヘプバーン」と「シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン」を紐解いてみます。
 この2冊は僕がオードリーの兄が日本に居た、ということを知ったきっかけになった本です。

07-01-12_23-34.jpg

 これら2冊の写真集は、今見てもオードリーの写真集の中でも最優秀の部類に入るもの。
 今となっては珍しい写真と豊富な記事によって、オードリーを知る資料としてもトップランクです。

 そこで載っているオードリーの兄の来日に関することでは、

 「カタログ オードリー・ヘプバーン」(1977年発行)…年譜のところに“異父兄が二人。うち一人は後にシェル石油の販売部長として日本に勤務”の記述
 
「シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン」(1971年発行)…南俊子さんの文章で、“長兄のA・R・A・クアレスは、シェル石油会社の駐在員として来日し、十数年前だか横浜に住んでいたことがある。どこかオードリーに面差しの似た、物静かなハンサムな紳士であった。次兄は当時ジャカルタで父親とコブラの事業に従事していたと聞く。たぶん長男を頼ってであろう、ひっそりと来日した母親エラが、築地の松竹セントラル劇場で「昼下りの情事」を鑑賞している姿が見られた。”の記述

としっかり当時を知っている方の手で書き残されています。

VFSH0364.jpg

 僕はといえば、当時は兄のことよりも母が日本に来ていたことの方が重大事項で、そのことは覚えていましたが、兄がどちらだったのか、ということはすっかり記憶から落ちていました。

 でもここでわかるのは、オードリーの兄が日本にいた、ということは71年の段階で既に過去形だったということ。
 西丸氏の書いていたように、77年頃にもまだ居たら、きっとそれらの写真集でも “現在も在住”と書かれていたと思われます。

 あと、“映画の友”誌でのアレクサンデル氏のインタビューでも、「シネアルバム」でも弟のイアンはジャカルタで父とコブラの仕事をしている、と書かれています。

 コブラの仕事ってなに〜!?と思いますが、ジャワではアレクサンデル氏の父の仕事で集めたコブラの油から石鹸やマーガリンを作っていたそうです!石鹸はともかく、食べるマーガリンにコブラの油ってイヤーー!と思いますよね。
 
 兄が弟の居場所を間違えるとも思えませんので、イアンが日本にいた、という可能性はほぼ絶たれたと思います。

 というわけで、日本にいたオードリーの兄はアレクサンデル氏、そして肩書きも本人はマネージャーと言っていたようなので、支店長だと誤解を受けたのでしょう(マネージャーって会社によって役職に幅がありますもんね)。
 さらに、50年代の終わりか60年代初めには日本からは離れていた、と思われます。

 惜しむらくはNHKの「私の秘密」ですよね。もし現存していればもっとオードリーのことをテレビで語っていたと思うのですが、アレクサンデル氏が出演したであろう1956年や1957年は当時録画で使用されていたキネスコープレコーディングやオープンリールの2inchVTRは非常に高価だったために、使い回されていたらしく現存していません。
 なにせあの大河ドラマですらNHKに完全版で現存していたのは1980年のものからだそうなので。

 なお「横浜歴史さろん」さんのカセイジンさんの文章にはその後次兄ではなく長兄であった、という訂正文が記事の最後に掲載されています。
スポンサーサイト
81.オードリー・ヘップバーン映画にはオードリー・ヘップバーンはいない!?

みなさん、気づいてました?
実はオードリー・ヘップバーンの映画にはオードリー・ヘップバーンがいないんです!

これって何のこと?って思いますか?
オードリー・ヘップバーンの映画なんだから、オードリーがいるのは当たり前やんか!みたいな…。

実はこの“オードリー映画にはオードリーがいない”というのは、
“もしオードリーの出演作が全て現実のことだったら…。”というお話です。
ちょっとおバカでSFちっくな考え方なので、“ふ〜ん”って軽く読んでいただけるといいかと思います。

映画を観る時って、みなさんそれぞれいろんな登場人物に感情移入、あるいは僕のように守護霊になった気分で見てらっしゃるかと思うんですが、そうすると自分がまるでその世界に生きているような気になったりしませんか?
映画が終わる時、その世界から現実に戻されるので、ちょっと寂しいな…と感じたり。

なので、“もしその映画が本当のことだったら…”ってもしもの世界を想像する事が有るんですが、みなさんはそういうことってないですか?
一緒にニコルやジョアンナやサブリナたちが生きていたらいいな〜って。

さてそこで、もしオードリー映画が本当の現実世界の事だと仮定すると、どういう事が起こるんでしょうか?

実はその途端にその世界からオードリー・ヘップバーンはいなくなってしまうんです!

もし撮影した年にその登場人物が本当に生きていたとすると、彼女たちはものすごい “オードリー・ヘップバーン” という女優に似てると思いませんか??
ところが劇中で彼女たちは一度も“オードリー・ヘップバーンにそっくりだね!”って言われないんです!

「ローマの休日」の時(1952年夏撮影)はまだオードリー・ヘップバーンは銀幕のスターではありませんでしたから、誰も気付かなくてもおかしくないんですが、「麗しのサブリナ」以降は映画界の注目の的で、めちゃくちゃ有名になった女優 “オードリー・ヘップバーン” との激似を誰も指摘しないなんておかしいですよね?
だってアリアーヌもスージーもビックリするくらいオードリー・ヘップバーンに似てるじゃないですか!まさに瓜二つですよね!

100歩譲って、「噂の二人」のカレンが住んでいたところは田舎町なので、“オードリー・ヘップバーン” を誰も知らなかったかもしれませんが、「パリの恋人」のジョーはファッション界、「パリで一緒に」のガブリエルや「ティファニーで朝食を」のホリーは映画界そのものとも関係しているので、超有名なオードリー・ヘップバーンを知らない、ということはあり得ないことです。

「パリで一緒に」なんかはまさに映画界のことだし、当時大スターだった “トニー・カーティスに似てるの。” なんて会話が出るのに、タイピストのガブリエルがオードリーにめちゃくちゃ似てるってことを指摘されないのはおかしくないですか?
「マイ・フェア・レディ」のことも会話に出てくるのに、当時既に配役は決まっていたであろうオードリー・ヘップバーンが出てこない、というのはこの世界にはオードリー・ヘップバーンがいないから…という事だからですよね。

なので、きっと彼らの生きている世界は、現実にあったとしても僕らの住んでいるこの世界ではない、似て非なる《平行宇宙(パラレルワールド)》での出来事ということになりますよね。

時代劇である「戦争と平和」「尼僧物語」「緑の館」「許されざる者」「マイ・フェア・レディ」「ロビンとマリアン」の世界は、もしかしたらオードリー・ヘップバーンが存在する、僕らと同じ世界に繋がっているかもしれませんが、現代劇は全部《平行宇宙》のお話ですよね。

その世界では「ティファニーで朝食を」のホリーはマリリン・モンローだったかもしれませんし、「マイ・フェア・レディ」のイライザは、オードリーの次に候補だったというエリザベス・テイラーが貫禄たっぷりに演じていたかもしれません。
それともや舞台と同じくジュリー・アンドリュースが演じて、逆に「メリー・ポピンズ」がジュリーじゃない人が主演だったかも…。
とにかく映画の歴史は大きく変わっていた事でしょうね。

「パリで一緒に」なんかは映画界の話で徹底的に遊んでいるので、
“君はオードリー・ヘップバーンに似てるね。”
“あら、そうかしら?たまに言われるわ。”
なんて会話があっても良かったのにな〜と思うんですけどね。
そうすれば、劇場の観客は沸いたでしょうし、僕も“この世界にはオードリーがいるんだなー。”って考えられたのになーって。

まあこれはどの俳優さんでも言える事であって、マリリン・モンローの映画世界にはマリリン・モンローは生きていないし、グレース・ケリーの映画にはグレース・ケリーがいないのでしょうね。
アラン・ドロンでもクリント・イーストウッドでもスティーブ・マックイーンでも、最近のジョニー・デップでもアンジェリーナ・ジョリーでも、現代劇ではみんなそういうことになりますよね。

今までわりとそう思ってきて、でもこんなパラレルワールドの疑問は誰もネットでも書いてないので、みんなはどう思ってるのかなー?ということで今回アップしてみました。
今日はオードリーの85回目の誕生日です。
そこで以前から気になっていたことを書きます。

オードリーって実生活では母性の強かった人でファンには知られていますよね。
「暗くなるまで待って」の後で、オードリーは子育てに専念する為にしばらく映画界を退いていますし。

でも映画では、オードリーはなんと3回しか母親の役を演じていません。
「モンテカルロへ行こう(モンテカルロ・ベイビー)」「いつも2人で」そして「ニューヨークの恋人たち」。

でも初期の「モンテカルロへ行こう」は赤ちゃんがいなくなるというドタバタ喜劇で、オードリーは母親でありながら、母性はあまり必要とされていない。そのうえまだオードリーも若いし、実際には母親になってないので、母親らしさは皆無。

「いつも2人で」はさすがに実際の母親になってからなので、せっかく作った砂のお城を壊された娘を思い遣るシーンは巧いのですが、子役があんまり気にしてなさそうなのがネック。(^^;
それにあくまでもこれは夫婦の話なので、あまり子供に重心は置かれていない。

「ニューヨークの恋人たち」は子供と歩くシーンがありますが、まあこれも子供がいるんです、っていう設定を見せてるだけで、話の筋では飾りみたいなもの。

なので、あんまり子供との関わりってのがないんです。映画では。
「噂の二人」が学校を経営している教師の役なので、子供は出てきますけど、これも母性が見れる作品では無いですしねー。

過去にオードリーがオファーを受けながら断ったらしい作品を調べると、子供との関わりの大きいものも無かった訳ではなさそうなんですよね。
たとえば「サウンド・オブ・ミュージック」。他に子供と大きく関わる作品が無いので、オードリーが演じたらどうだったんだろう…っていうのがあんまり想像できません。

他にも、1959年の「月夜の出来事」というケーリー・グラントのロマンティック・コメディ映画で、映画評論家の大御所だった双葉十三郎氏が “これはオードリー・ヘプバーンの為に用意されたのではないか?” と書いておられます。
妻が死んで3人の子供を持て余しているところにソフィア・ローレンが現れて子供たちと仲良くなり、グラントと結ばれる…という役らしいんです。が、ソフィア・ローレンだとアクが強く、微笑ましさがない。オードリーだったらもっとキュートになったろう…と述べてらっしゃるんですよね。
もっともその時期のオードリーは「尼僧物語」「緑の館」「許されざる者」と、演技も出来る事を見せようと、真面目な映画にチャレンジしていた時期だったので、オファーがあってもコメディには興味なかったのかもしれません。

逆にオードリーにお母さんのいた役ってのもほとんどありません。実の母は「戦争と平和」1本だけ。あと「許されざる者」では育ての母がいますが…。
父子家庭なら「麗しのサブリナ」「昼下りの情事」「尼僧物語」「マイ・フェア・レディ」「おしゃれ泥棒」と5本もあります。「華麗なる相続人」でも冒頭で父が亡くなりますが、母は既にいない設定なので、計6本になりますよね。

実際には父と離れて母子家庭だったオードリーですけど、このお母さんがかなり厳格にオードリーを育てたそうで、一般に想像するような優しい母のイメージでなかったことはファンの間では有名。
オードリーの伝記でも、母エッラは他の人といる時はとても気さくで明るい人柄なのに、オードリーに対しては別人のようで、とても厳しかったそう。オードリーもそれを苦痛に思ってたフシがあるんですよね。でもエッラは本当はオードリーを物凄い大事に思ってたんだろうなー、大好きだったんだろうなーって思います。エッラとオードリーにとって残念なことに、エッラは愛情の表現の下手な人だったんでしょうね。

ま、そのおかげで友人たちが知る自分を律するオードリーが形成されたんでしょうが、このオードリーの持つキリッとした感じが、演じるにあたっても母子家庭の子というよりも、父子家庭でお母さん亡き後、家の事一切をこなしてきた健気にお父さんを支える娘、という方がピッタリだったんでしょうね。

現実では母の(目に見える)愛情を受けなかったので、自分の子供には思いっきり母の愛情を注ぎたい!というのがオードリーの願いだったようです。
やがてそれが “映画に出ていると子供との時間が減ってしまう…” という思いに変わっていったようで、「いつも2人で」や「暗くなるまで待って」の頃のインタビューでは既に映画よりも子供といる時間を大事にしたいという発言をおこなっています。

後年ヴィスコンティが「家族の肖像」で、ピーター・ボグダノヴィッチが「カーテンコール/ただいま舞台は戦闘状態」でオードリーに依頼したような、年下の男と関係を持つ、などというオードリーのそれまでとあまりにかけ離れた、かつオードリーが演じたがらない役柄ではなく、オードリー自身に有り余っているような母性を演じるような、楽しいor真面目な役のオファーがあったら、もしかしたらオードリーも出演に快くOKを出したかもと思うんですよね。

でもなんで、そういうオードリーに不向きな役を監督たちもオファーするんでしょうねー。オードリーの性格からして、そういうのはもう依頼する前から受けないとわかりそうなもんですけどねー。まあ70年代という時代の映画が、オードリーらしさなど求めていなかったのかもしれないな〜とは思うのですけれども。

結局そういうオードリーの溢れる母性は、晩年のユニセフの行動に繋がっていって、“世界中の子供たちを救いたい!”と訴えるようになっていくんですよね。
その思いは今でも“オードリー・ヘプバーン子供財団”が引き継いでいるわけですけれども。

もし後期にそういう母の役があれば、ファンには実生活でのオードリーが息子たちにどんな風に接していたのかが垣間見えたかもしれませんし、「ロビンとマリアン」に続いての後期の代表作が出ていたのかも…なんて思って、ホントにもったいないな~と思うのです。
 今日はオードリーの21回目の命日です。ある意味、忘れられずにこうして21年も経ったってすごいこと。
 オードリーは63才で亡くなりましたけど、84才の今でも生きてるんだね〜!みたいな。

 オードリーに、“今、日本で「マイヤーリング」上映してるんですよっ!今でもこんなにファンがいるんですよっ!”って教えてあげたいです。あ、もう知ってるかも。(^^;

 で、今日はオードリーがパリでの常宿にしていたホテル・ラファエルについて。

 ホテル・ラファエルはもちろん五つ星(★★★★★)のホテルなんですけど、リッツ・ホテルのようには目立たなくて、いかにもオードリーらしい選択かなーと思ってます。

 さて、このホテル・ラファエルですけど、ある映画の宣伝写真でのロケに使われているそうです。それは「パリで一緒に」!
 オードリーとホールデンがベランダみたいな所に出て、ホールデンが後ろからオードリーの肩に手を乗せて、オードリーはそのホールデンの手に自分の手を重ねている、という画像です。あと、それらの一連の画像。遠景でエッフェル塔が見えますよね。

DSC_2765.jpg

 これ、旅工房さんに教えていただきました。そうだったのかー!ホテル・ラファエルって、オードリーが泊まったホテル、ってだけじゃなく、オードリーの映画のロケ地でもあったんですね!

 映画の中では、ホールデンが1人で出てくる最初のところを除いて、もちろんセットになってました。

 さて、オードリーは映画の撮影などでパリ住まいをしなければいけない時、自分の家具一式を持ち込んでいた、と書いてある伝記がいくつかあるんですよね。
 こないだの「松下奈緒 永遠のオードリー」という番組では家財道具一式、と言ってました。

 で、これを読んだ吉村英夫氏の著作なんかでは “他人の手が触れたものは我慢出来ない、大スターのわがまま、贅沢し放題、矛盾だらけの経済観念!”と決めつけられてました。

 オードリーは家庭を大事にする人だから、メル・ファーラーも一緒となると、少しでも家に近づくように&くつろげるように、ということでやっているんだとろうなーと僕なんかは思ってましたし、今までの記事でもそう書いてました。

 で、こないだの旅工房さんの“オードリーのクリスマス”でのホテル・ラファエルを解説してくださってたんですが、そこでわかったことがいくつかありました。

 まず、オードリーは「この部屋!」っていうのを決めていなかったらしいこと。
 ホテル・ラファエルの部屋のランクには、下からクラシック・ルーム、デラックス・ルーム、ジュニア・スイート、デラックス・スイートとあるようなんです。
 で、オードリークラスの部屋となると、誰でもきっとめちゃくちゃ豪華なスイートルームに泊まっただろうと想像するんですよね。きっと何部屋もあるような、みたいな。

 でもオードリーは基本ジュニア・スイートで泊まっていたらしい事。となると、リビングとベッドルームしかない部屋だそうです。
 何度も来てるうちには、ホテル側が気を利かせて1ランク上のデラックス・スイートに部屋を変えたりすることもあったんじゃないか、とホテルの事情をよく知っている旅工房さんのお話でした。

 確かにそう考えると、オードリーの泊まってた部屋が3階だとか、前述の「永遠のオードリー」では7階だとかっていうのも説明がつきますよね。オードリーは常に同じ部屋に泊まっていたわけではない、と。

 ホテルはいつも同じだけど、部屋は別にこだわっていない。私の都合ではなくて、あなた方の都合でいいのよ。ってのがいかにもオードリーらしい。
 オードリーって、撮影監督はなるべく気心の知れた人を指名してたようですけど、でも出来上がった作品はプレミア以降はもう見ない、こだわらない。ってのと、この同じホテルだけど決まってない部屋とが妙に納得しちゃうんですよね。

 もちろん改装はこまめにされているでしょうが、もしホテル・ラファエルのジュニア・スイート以上に泊まる事があれば、それはオードリーの泊まった部屋かもしれない!ということはあるかもしれないですよね。 

 さてそのジュニア・スイートでも、「永遠のオードリー」で紹介されていた7階の部屋でも、部屋の大きさは違えど、リビング+ベッドルームというのは同じ。正直そんなに広くはないです。

 というわけで、これでわかるのは、始めの方に述べた “家具(あるいは家財道具)一式を持ち運んでいた” という部分の本当のこと。

 もしオードリーが家具を持って行ったとしても、2部屋しかないスイートでは、運び込める量もたかが知れている、ということ。

 旅工房さんのお話では、“そんな!家具を持ち運んだとか、それは無いんじゃない?”とのこと。
 家具を持ち込んだか、家財道具だけだったのか、それともそんなことは全くしていないのか…。
 どっちにしても、そんな家中お引っ越し!みたいな状況では全然ない事だけははっきりしています。

 これってホテル・ラファエルをきちんと調べればわかることですよね。今までも何度もホテル・ラファエルも使った事のある旅工房さんだから部屋の様子もわかるので、それを聞いた僕も全てがクリアになりました。

 なので、某氏の著作など、ホテルを調べもせずに書いた“単なる妄想”ってのが丸わかり。ま、その人のオードリー本は全部そんな感じなんですけどね。┐( ̄ー ̄;)┌

 とにかく、オードリーはやっぱりオードリーらしくって、思った通り大スターにしちゃ意外と質素だってことです。
 さて、今回も“みつおのオードリーと映画のお話”からです。

2. 60年代のオードリー

 みなさんこんにちは!(って、僕の文章なんて読んでくれる人いるのかな?) 
 今回はオードリーの魅力についてもっとちゃんと書きますね。

 今のオードリーファンって、「ローマの休日」とか「麗しのサブリナ」とか初期作品をベストに推す人が多いと思うんですけど、僕はなんといっても60年代に入ってからのオードリーが好きですね!
 いや、もちろん50年代のオードリーも好きなんですけども、もっともっと60年代のオードリーが好きなんです!


 60年代のオードリーの魅力はなんと言っても
 “自分で動くオードリー” これですね!
 どっちかっていうとストーリーに流される役の多かったオードリーが60年代に入るとストーリーをぐいぐい引っ張っていってる!
 そのハシリが60年撮影、61年公開の「ティファニーで朝食を」ですね。
 この作品はもしかしたら高級娼婦まがいの役なので、オードリーにしては「尼僧物語」や「緑の館」から始まる“チャレンジオードリー”の流れなのかもしれませんが、結果的にはそれらとは全く違うオードリームード満点の作品になっちゃいましたね。
 オードリーとまったくそぐわない役でありながら、オードリーでないと!というところまで持って行ったオードリーってホント凄い!

 それと、60年代のオードリーの役って、働く女性が多いですよね。
 「ティファニーで朝食を」もそうだし、「噂の二人」の自分で学校まで経営しちゃう教師、
 「パリで一緒に」のタイピスト、「シャレード」も結婚後は安穏と暮らしているみたいですが、ダンナが死んだらさっさと元働いていたユネスコに戻ってる。
 「マイフェアレディ」は花売り娘で自分(&父親)の生活を支えてるし、
 一見働いてなさそーな(というか働かなくてもよさそうなぐらい金持ちの娘の)「おしゃれ泥棒」でも北大西洋条約機構で働いていることになっている。
 「いつも2人で」は専業主婦だけど、下手くそなダンナの代わりにちゃっかり売り込んでいる!
 「暗くなるまで待って」は設定上働いてはいないけど、盲学校に行ってるし、どうもこのスージーは頭が大変良さそう…。
 
 てなわけで程度の差こそあれ、みんな生きることに一所懸命ですね。
 それも働くことに不満とか漏らさない!そこらのオジさん達よりよほど立派です。
 それらの作品で共演している男優さんの役の方がよっぽど頼り無いです。

 オードリーってよく“年上の男性に守られている役が多い”なんて書かれてますけど、
 60年代のオードリーは違いますね。騙されないで、よ~く作品を見て下さい。
 実はコントロールしているのはオードリーの方だったりするんですね、これが!
 “年上の男性に守られている”んじゃなくて“年上の男性に守らせている”の方が正しいような…。
 
 「ティファニーで朝食を」はそんなホリーを見てポールは男妾の怠惰な生活をやめちゃうし、
 「噂の二人」では元婚約者に一瞥もくれない。
 「パリで一緒に」は鳥かご作戦で迎えに来させちゃうし、
 「シャレード」は“で、ミセス○○は?”って迫りまくるし、
 「マイフェアレディ」で最後に選択権のあるのはイライザの方。

 「おしゃれ泥棒」は珍しくずっとシモンに引っ張られっぱなしなのに、最後の最後に二人の立場が逆転しそうなセリフ…。
 「いつも2人で」も一段高い所から夫婦について考えているし、
 「暗くなるまで待って」はたった1人で悪漢に立ち向かう!
 
 実際はこれってみんな弱くなって守ることに疲れた男にとって“こうあって欲しい!”という願望の女性かもしれませんが、“かわいい”だけじゃない、“自分で動く!考える!”60年代の潔いオードリー、とっても魅力的です!


 ★2002.5.16の文章です

 | BLOG TOP | 


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。