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Author:みつお
オードリー・ヘプバーンのファンです。最近は色々とオードリーに関して調べています。
一番好きな映画は「いつも2人で」。
どうぞよろしく!
別のブログでオードリーグッズの紹介もしています。
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なお、画像や文章の無断転載はお断りします。

©おしゃれ泥棒 オードリー・ヘップバーン!by みつお


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さて、いよいよオードリーが演じたかった
レイチェルの話にもなっていくのですが、
ベンがカウボーイ達と街へ行っている時に
カイオワ族が攻めてくるんです!
ベンが残して行ったはずの見張りの2人のカウボーイもいません
(後にカイオワに殺されたと判明)。

その時、母マティルダの体調が急激に悪くなります。
たまたま薬草の心得のあるジョージアが家に来ていました。
もちろん全員で応戦。
映画と違って、百発百中では全然なく、
一旦カイオワは引き上げるものの、
引き上げる理由が“馬が疲れているから”とか
そういう理由なんです。

ザカリー家は警戒のため、病気で寝ているマティルダ以外は
ほとんど眠れないという状況が続き、
キャシアスはジョージアをその停戦中に
ローリングス家に送り届けます。
ところが、ザカリー家への帰り道、
キャシアスはカイオワに襲われます!
馬を撃たれ、背中を射られ、馬が倒れる際に片足を潰されます。

死にそうになりながらも、点々とついてしまう背中の
血の痕を利用して、カイオワの裏の裏をかき、
あの手この手でカイオワ軍団のうちなんとか4人倒すキャシアス。
弾丸もなくなった最後は死んだふりをし、
頭の皮を剥がれる時にくるっと体を回して
もうひとりナイフで仕留めますが、
次の瞬間四方八方から切り刻まれ突き刺されて絶命します。

家族を守るために必死で戦うキャッシュ!
なんてカッコイイんだっ!!(泣)
映画のジョージアといちゃいちゃして
家族を残しているキャッシュとはまるで違います。

いよいよカイオワはレイチェルとアンディ
(そして病気で瀕死のマティルダ)だけの
ザカリー家へ攻めて来ます。そう!ベンはいないのです!
すべてレイチェルとアンディだけでやっていくのです!!
映画みたいに槍を投げたり、なんて悠長なことはしてくれません。
銃弾が雨あられと撃ち込まれるんです!!

こちらの銃も全然必中じゃあありません。
ちょっとの場所の違いで殺されたかもしれない
レイチェルとアンディのことも書かれています。
そう、カイオワはもうレイチェルが死のうがどうなろうが
かまわないようです。
もし生きてカイオワに捕まったら、
生かしてはおいてくれるかもしれませんが、
レイチェルの希望なんて聞いてはくれないでしょう。

そしてとうとう逝ってしまったマティルダを前に、
レイチェルは心に誓うんです。
“決してお母さまの美しいお髪を取って行かせませんからね!”
たった2人で守るアンディとレイチェル。
2人はそれぞれ3つも4つもの銃眼を守らなければならなく
なりますが、とうとうアンディも腕の根元を撃たれ、
レイチェルは36時間、ほとんど寝ていない状態でありながら、
たった1人でカイオワ族と対決することとなります。

じっと待つレイチェル。そこで聞こえて来る床下からの物音…。
カイオワは穴蔵から侵入してこようとしている!!
そして少しづつ少しづつ持ち上がる床板…!!!

そうしてすべて終わってからベン(と残りのカウボーイ達)が
帰って来て、銃や家畜によって破壊され尽くした家の有り様を
発見するのです。
ベンは映画のキャッシュのように助けに入ったわけでもないんです。
もうほんとに何もかも終わった後。
累々と広がる死体と血だまりの中の静けさで生きているのは
放心状態のレイチェルと、熱に浮かされうわ言を言うアンディだけ。

後にアンディはベンに言います。
「姉さんは自分の命のために戦ったんじゃない。
俺達の為に戦ったんだ!」

というわけで、原作では最後はレイチェルのための西部劇に
集束していきます。
そう、これこそがオードリーの演じたかったレイチェルなんです!
この原作のままだったら、レイチェルは
“「許されざる者」という設定のお飾り”ではなく、
コメディではない作品では極めて珍しい
“女性が主人公として活躍する西部劇”という中での
ヒロインになっていたことでしょう。

ではいったいどうしてこのような改変がなされたのでしょうか?
これは制作のヘクト=ランカスタープロダクションのせいかと
僕には思われます。
名前の通り、これはベンを演じたバート・ランカスターの
プロダクションでもあります。
このプロダクションはこの時期、「ヴェラクルス」「マーティ」
「空中ブランコ」と次々と名作を世に送りだしており、
波に乗っていました。

ただ、この作品「許されざる者」では最後の戦いで、
その場に居ないランカスターにするわけにもいかず、
また次男キャッシュが当時英雄視されていた
オーディ・マーフィーになったことでさらに見せ場を
作らなければならなくなり…と脚本を作って行くと、
当然削られるのはレイチェルが1人で戦う場面で、
そのためこんな人形のような存在のレイチェルに
なってしまったのでしょう。

そこでレイチェルにも重い意味を持たせるため、
最後に撃ち殺すのを兄にしたり、また製作されたこの1959年頃、
ネイティブ・アメリカンにも配慮して平和的なカイオワ族にしたため、妙に後味の悪い、原作とは別物の「許されざる者」が
出来上がっていったと思われます。

ジョン・ヒューストン監督が「仰々しい」、
リリアン・ギッシュが「もっとオードリーを活かせたはずだ」
と言ったというのは、原作との差異が著しい
この脚本に大きな原因があったようで、
オードリーファンの僕としては、
原作のように活躍するレイチェルが見てみたかったです。

そうすれば現在の評価はどうなっていただろうと
つい思ってしまいます。
おそらく「尼僧物語」に匹敵するような第二期オードリーの
代表作になったかも!なんて思ってしまうんです。
アカデミー賞だって手中に収められるくらいの!
名作に成り損ねた名作、というのが
この「許されざる者」に与えられる評価なのかな~、という…。

「許されざる者」撮影中、次にオードリーはヒッチコックの
「判事に保釈なし」に出演の予定でした。
この決して作られることのなかった幻の映画のお話は
いずれまたどこかで…。

そしていよいよ!役柄の特異さは無くても、
“オードリー・ヘプバーン”という個性が際立つ、
華麗なる第3期の幕開け=「ティファニーで朝食を」に
オードリーはエンジン全開で入っていくのです!

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今度は原作「許されざる者」との相違について、です。

このレイチェルという役をオードリーが演じたがった、
というエピソードが残っている、ということは既に書きましたし、
マティルダ役のリリアン・ギッシュが
「もっともっとレイチェルの役はよくなったはずなのに、
監督はオードリーを活かし切っていない!」
ということを述べたと言うのも伝わっています。

確かにこの映画のオードリーはあんまり活きてません。
でも原作を読めば、いかにレイチェルが凄い役であるか、
というのがよくわかります!
そうそう、この原作、途中から読むのを止めることが
できなくなります!
(原作はかつて角川新書として発売、現在は絶版。
手に入れたい方は古本屋さんで探してください。)

まず、アラン・ルメイの原作を読めば
当時のテキサスで生きていくことがいかに困難かがはっきりします。
さらに人種差別云々の問題を
映画ではいかに注意をはらって扱ったかがよ~~くわかります。
あの映画で“人種差別が…”なんて言うのは
全くあまっちょろい考えだったことに気付くでしょう。

原作では人種差別、という概念ではなく、
単にものすごい悪としてカイオワが描かれます。
食うか食われるか。
そういう状況で白人達は生きていることになっています。
少しでも安全をおろそかにした者は殺される…。
殺されるのが日常茶飯事、そんな時代なのです。

たとえば、たった1台の馬車で呑気に移動した者や、
家の作りを甘く造ってしまった者、
そういう者達はみんな生きたまま頭の皮を剥がれ、
腕や足を切り落とされて惨殺されるのです!
たとえば、映画でベンは家の屋根を焼きますが、
あんな燃えるような屋根を造ったら、
原作では1発でカイオワにやられます。
カイオワだってバカじゃないんですから。

隣のローリングス家のお母さん、
ヘイガーがカイオワに憎悪を抱くのにもちゃんと根拠がありました。
子供の頃家族はみんなカイオワに惨殺され、
大人になった自分もカイオワに陵辱され捕虜にされる。
同時に捕虜になっていた別の女性は
歩けなくなったところで頭の皮を剥がれ、
その女性の3才の男の子は足を持って川に放り投げられ、
溺れかけている所をまるで遊びのように3回も弓で顔を射られて
殺され、それを必死で止めようとしたヘイガーは
足をくくられて馬で引きずられ、足が不自由になってしまった…
ということが書いてあるのです。

さらには娘には映画でのジョージア以外にもうひとりおり、
その娘は結婚したばかりのダンナやお付きの者と馬車に乗って
家に帰って来る途中でやはり全員惨殺されてしまいます。
これだけ理由があれば、カイオワを憎んで当然です。
そりゃあ許せないでしょう。

本当にカイオワがそうだったかは知りませんが、
少なくともこの小説ではそうなっているのです。
当然ベンは注意を怠らない人間で、ローリングス家とは別に
雇っているカウボーイ達が12人おり、
孤立した時、家族だけしかいない、という
無防備な状況ではありません。

また、オードリーが“インディアンに見えない”という件ですが、
これまたカイオワ族はいろんな所から
女や赤ん坊をさらってきているので、
純粋なネイティブ・アメリカンばっかりではない
ということも語られます。
オードリーが白人との混血に見えても、それはそれでいいようです。
実際原作にはレイチェルの目は光の加減で黒くなったり
緑になったり、あるいは青になったりすると書かれています。
まさにオードリーそのものの目!なんです。

エイブ・ケルシーも原作ではさらに卑怯者として描かれます。
彼の言う“さらわれた息子”の話も勝手な思い込みで、
現実には何人もの近隣の人間がエイブの息子セスが殺され、
埋葬される所を見ています。
にもかかわらず、“セスらしき白人がカイオワにいる”と聞いて、
さらわれて生きていると信じ込んだエイブは
生きていると言って歩き、
真相を知らない、他の土地からやってきた
ベン達の父であるザカリーに協力を求めます。

エイブを信じたザカリーは一緒にカイオワを追って、
カイオワの襲った村の跡へ行き、そこで見つけたのが
カイオワが忘れて行ったレイチェルだった、という訳です。
そして、結局カイオワにいたのは
セスとはまったく似ても似つかない、年令も合わない
“セッツ”という白人の少年で、
彼は赤ん坊の時からカイオワにいたため
すっかりカイオワに同化しており、
むしろさらに残忍な人間として描かれます。
後にザカリー家を襲う時には首謀格のひとりであるという設定です。

ザカリーは無駄足だったと諦めるのですが、
“生きているセス”を連れ帰らないことで逆恨みしたエイブが
“インディアンの娘を返さないから息子が返してもらえない!”
とザカリー一家を悪く吹聴し始める、
ということになっていくのです。

しかもまだセッツをセスだと思い込んでいて、
カイオワにくっついて回り、散々いいように使われている、
というわけです。
ローリングス家の娘が殺されるのも、
エイブがカイオワに娘が通るということを教えたからであり、
最期はマティルダが怒りで縄を切るのではなく、
保安官にきちんと処刑される、ということになっています。

だいたいマティルダの性格も、映画のように勝ち気ではなく、
むしろエイブが処刑される時には可哀想だと泣いているくらいで、
最期も撃たれて死ぬのではなく、病気で静かに死んでいきます。

さて、他のキャラクターもストーリーもだいぶ映画と違います。
ベン、キャシアス、レイチェル、アンディの年令は
それぞれ24才、21才、17才、15才、ということになっています。
まあベンは家長のため30才くらいに見えるとはなっていますが、
うーん、映画のベンとキャシアスはちょっと苦しいなあ…(笑)。

もっとも、映画では末っ子アンディが19歳という設定ですから、
当然他の兄弟も年齢的にもっと上なんでしょうけどね。

さらにキャシアスは原作ではかなりのインテリのように描かれます。
しかも背もスラッと高いそうですので、
原作でのイメージはすっかり優男。
映画の配役とイメージ一番違うのがこのキャシアス。

映画ではレイチェルの実の兄になっているカイオワも、
実は原作では単に“同族”ってだけ。
しかもあんな映画のような立派な人間としても描かれていません。
レイチェルもこの親戚を見て、むしろ反発を覚えるくらいです。
3人の平和の使者が来た際も、
まっ先に殺されるのがこのレイチェルの同族なのでした。

なので、映画でレイチェルが兄を殺すという設定にしたのは、
映画に重い意味を持たせようとした映画制作者側のオリジナル、
ということになります。


さて、この「許されざる者」、カイオワ族に対して
人種差別を行っている、という意見を書いてある文章を見かけます。
1960年にもなってこんな認識しかできてない、とかね。

僕の意見は全く違って、むしろそういうことに疑問を投げかけて
いるのが映画「許されざる者」じゃないのかなーって
思うんですけどね。

だって、レイチェルがカイオワの血を引く娘だと知って、
人種差別をするのはローリングス家を始め白人の隣人達で、
その彼らに背を向けて孤立して
「許されざる者」というそしりを受けてでも、
本当はカイオワ族であるレイチェルを守る!という一家、
という設定なのに、なんでこれが人種差別の映画なんでしょうね?

確かに次男キャッシュはもともと人種差別がひどく、
今まで妹として育ったレイチェルなのに、
カイオワの血が入ってるとわかった最初は、放り出してしまえ!
みたいな発言をしますけど、結局助けにやってきますもんね。

だからこれはカイオワ族がインディアンだから悪である、
という構図には全然なってませんよね。
悪はレイチェルの出生の秘密を知って村八分にする隣人達であり、
ザカリー一家は愛する「家族」を守るために当然のように戦う
ごく一般の家庭。
そのレイチェルを取り戻しに来るカイオワ族だって、
親戚がいるから返して欲しい、という
ごくごく普通の考えのように思えるんですけどね。

ただ、「レイチェルはお返しします。でも時々は遊びに来させて
くださいね。」「いえいえ、こちらこそそちらで育ててくださいよ。
たまに顔をみせてくれたらいいですから」
なんて悠長なことを言ってられるような時代ではなかった、
ということで。まだまだこの時代にはネイティブ・アメリカンと
白人には越えられない溝があった時代です、
ってことを状況として見せているだけなように思えるんですけどね。

人種差別をしているのではなく、
人種差別について問いかけている映画だと思うんですけど。
だからこの映画が訴えて来るのは、
どうしようもない選択を迫られた時、
“あなたは何を選びますか?”
という点であるように思うんですよね、僕は。

あなたが隣人の立場だったら?
あなたがザカリー家の兄弟だったら?
あなたがマティルダだったら?
あなたがレイチェルだったら?みたいな。

この映画には不思議な役が出てきます。
ジョン・サクスン演じるジョニー・ポーチュガル。
ジョン・サクスンの訃報が小さく5行くらいで新聞に載った時、
代表作の1つにこの「許されざる者」が載っていました。
その時僕はアンディの役の男の子かと思ったんですが、
なんと!ジョニーの役でした。

だって、映画を見ればわかると思うんですが、
明らかにジョニーよりも末っ子アンディの方が役が大きいです。
ジョニーなんて途中で消えちゃうし。
こんな端役が代表作だなんて!って思いましたが、
当時ジョン・サクスンはかなり期待されて人気もあった
新進スターだったんですよね。昔の雑誌を見て知りました。

なんで途中で消えちゃうのかな?と思いましたが、
ローリングス家と袂を分かつ時にだーれも連れていきませんから、
その時に出番が終わったんですね。
なお、彼がレイチェルの髪に触った時にベンが殴りつけますが、
これは人種差別では無く、単にかわいい妹レイチェルに
悪い虫を付けないようにする、というベンの考えですよね。
ちょっと他の男共に対する見せしめっぽいですが…。

あと、公開当時のパンフレットで書いてありましたが、
映画化する際、最初のアイディアではこのジョニーは、
実は名前が表わすようにポルトガル人などの混血で、
ネイティブ・アメリカンでないことがわかり、
最後レイチェルはザカリー一家の迷惑にならぬよう
彼と結婚する為に逃げる、という設定だったそうです。
なんちゅうお気楽な案なんでしょうねー(笑)。

戦闘が始まる前だったらその後の話が続かないし、
まったくの肩すかし。
逆にマティルダや多くのカイオワ族が死んだ後に
のんきにジョニーと出ていったりしたら、
絶対このレイチェルって役を許せないでしょうねー。
たとえ本人に罪はないにしても逃げるなんて!
お前の為に何人死んだと思てるねん!みたいな。
それこそ「許されざる者」だっ!!ってことで。

さてこのジョニーのジョン・サクスン、
配役の話をもらった時はオードリーと結婚する大きい役だし、
ということできっと大喜びだったでしょうが、
結果はこんな小さな役…。しかもそれが代表作扱いだなんて、
なんかとっても可哀想です。

さてさて、この映画のオードリーですが、
確かに役柄はカイオワの娘だし、
このレイチェルのせいで一家が孤立し、
襲撃されるという大事な役なんですけど、
いまいちオードリーが動いているようには思えないんですよね。

第1期のオードリーのように“誰かが現れるのを待っている”
ということでもなく、ひどい言い方をすれば、
“そういう出生の秘密を背負って、単にそこにいるだけ”って感じ。
こんな程度の役で本当にオードリーは演じたかったのかな~~??
って正直疑問でした。

この問題が氷解したのは原作を読んでから。
“なるほど、これをオードリーは演じたかったのかーっ!”
ってわかりました。次はそのお話を。

今回は映画「許されざる者」について。

この映画、第2期オードリーの作品ですよね。チャレンジオードリー。
西部劇で、ネイティブ・アメリカンのカイオワ族という設定。

でもファンデーションを濃い目にしたという程度では
全然インディアンには見えないという意見多数。
そのへんは原作との対比で検証するとして、この作品、
オードリーがすごく演じたかったという逸話が伝えられています。
で、それに見合った作品だったんでしょうか?

なんかオードリーは確かに「許されざる者」という
レッテルを貼られる出生の秘密を持った少女ということで、
第2期のオードリーが好みそうなドラマティックな役柄です。
でも…できあがった作品を見ると、
どうもいまいちオードリーが活きている、
とは言えないような何かを感じるんですよねー。

作品としての出来はどうだったんでしょうか?
監督のジョン・ヒューストンはこの作品を大っ嫌いだそうです。
自伝でも、自作であるにもかかわらず述べられているのは2ページだけ。「脚本に関して会社に妥協してしまった。誰も彼もが仰々しい。」
ということで…。

ただ、この監督には一般的にはもっとひどい駄作が
いくつもいくつもあるそうで、
名作と駄作のブレが非常に激しかった監督さんなんですよね。
「許されざる者」は本当に中庸ということで、
この裏話だけだと作品がかわいそうですよね。

映画評論家、双葉十三郎さんの採点では70点。
見ておいていい作品の上、という扱いです。
ということは決して悪くない。
作った監督は愛着なくても、西部劇の歴代ベスト50くらいには
入るかな?(微妙)ベスト100だったらまあ確実に入るでしょう!
というくらいの良い出来ではあるようです。
僕も作品全体での出来は悪くないと思ってます。

さて、作品を見ていきましょうか。
テキサスで平穏に暮らしているザカリー一家は、
狂人のエイブ・ケルシーという老人の“本当の話”によって
レイチェルの出生の秘密を暴かれて孤立してしまい、
やがてエイブがけしかけたカイオワ族がレイチェルを取り戻しに
ザカリー一家を襲う、ということになってます。

で、この作品の後味を悪くする原因の1つがまずここに出てきます。
狂人の言っていることが正しい、という設定であること。
レイチェルの出生の秘密もそうですけど、
エイブの息子の話も否定されてませんよねえ、これ…。

たしかに、カイオワ族をけしかけたのは事実だし、
そのせいで隣人であり、レイチェルの婚約者だった
チャーリー・ローリングスが殺された、というのも事実で、
それはそれで絞首刑になる要素十分なんですけど、
最後に縄を切ったのがマティルダ・ザカリーですもんねー。
しかも怒りにまかせて、って感じだし…。

もうひとつはレイチェルが血のつながった実の兄のカイオワ族を
撃ち殺すというラスト。
すでに心はザカリー家の一員であるという認識もあるし、
もしそうしなければ弟として暮らしてきたアンディが殺される
という事もあるわけで、銃を撃たなければならないという
必然はわかるんですが、あの実のお兄さん、
とてもいい人そうに描かれてますもんね…。重い結末です。

そんなこんなで、果たしてこのエンディングで良かったのだろうか?
という思いを誰しも感じるんじゃないかなーと思います。
いくら最後のシーンで爽やかに雁の群れを青い空に飛ばしてもね。
あんまり見終わって爽やかじゃない。

でも実はこれ、原作にはない設定だったようなんです。
あと、途中で、平和の使者として来た3人のインディアンの1人を
長男ベンが末っ子のアンディに“誰でもいいから1人殺せ!”
って言いますけど、
これはカイオワ族はレイチェルを連れ帰るまで戻るつもりが無いし、
レイチェルも自分さえいなくなればザカリー家は安全だ、
って思って出ていこうとしてるから、
レイチェルが出ていかないようにする唯一の手段だったわけで、
話の進行上まあ仕方ないかなあ、と。

ここは100%ではないにしても、納得できる箇所なんですよね。
“人を殺してるのに、ザカリー家のカタを持つなんて!”
って思いますか?もし“レイチェルは返しませんよ。”
って平和的に言って、カイオワ族が表にいつまでもいるのを
無視して生活しようったって、そんな風になると思います?

事実隣家のチャーリーなんて何もしてないのに殺されてますからね。
一見平和的に見せてますけど、そうじゃないぞってことは
既に伏線としては張られてますよね。
この時代のテキサスがのんびりした事を言っていては
生きていけない環境だった、ってことは
おそらくアメリカ人の中では周知の事実であるんだと思います。
日本人である僕らはそういうことを知らないだけで。

さて、この作品についてよく言われる人種差別の問題について。
これは次に述べることにします。

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