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Author:みつお
オードリー・ヘプバーンのファンです。最近は色々とオードリーに関して調べています。
一番好きな映画は「いつも2人で」。
どうぞよろしく!
別のブログでオードリーグッズの紹介もしています。
リンクで行ってみてください。
なお、画像や文章の無断転載はお断りします。

©おしゃれ泥棒 オードリー・ヘップバーン!by みつお


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今回は「パリの恋人」について。

「パリの恋人」は、今見てもとっても画面が斬新ですよね!
オードリー自身も“今見ても新鮮です。”って
インタビューで答えてますし。
画面の構成のオシャレ度では、「いつも2人で」と並んで
オードリー作品では双璧だと思ってます!!!
どちらもスタンリー・ドーネン監督の作品。

でこの作品はですねー、最初見た時と今との自分の中での位置が
全然違う作品なんですよねー。
最初見た時はテレビ放映だったんです。
その時はオードリーの声、池田昌子さんじゃなかったので、
ものすごい違和感があって、どーもそれが気になってしかたなかった。
その上90分枠だったので、いまから思うと
ブチブチカットされてたんですよねー。

さらに!僕はあんまりミュージカルに酔えないタチみたいで、
“わー、最低のオードリー作品だー!”っていうのが
初めの印象なんですね。
おそらくその当時にこんなエッセー書いてたら、
ものすごいヒドイ事書いてると思いますよ。
それで後にそれを読み返して
“なんてバカなんだー!”って自己嫌悪に陥るという(笑)。

「マイ・フェア・レディ」は同じミュージカルでも
オードリーは怒ったり嬉しい時に歌ってる。
これはものすごい理解できるし、
レックス・ハリスンは歌うと言うより、喋りに伴奏付きって感じですよね。
だからミュージカルというのを意識せずに作品にのめり込めたんです。

でも、この「パリの恋人」はもろミュージカルですよね。
オードリーがやっちゃうんですよ!
え?何を?って、街中で歌い出しちゃうんです、唐突に!!!
♪ボンジュ〜ル パリ〜♪って!
こんなんおかしいやーん!みたいな。
「きれいになるために」というナンバーでも、
初めて歌う曲のはずなのに、マギーとジョーの振り付けが揃うしね。
こんなのフツー考えられないでしょ?

なんといっても最初見た時一番イヤだったのが
オードリーがパブで踊り狂う所。
オ、オードリー、どうしちゃったの??頭、大丈夫???って
見ているこっちが恥ずかしい!みたいな。
あのシーンでオードリーを見ているアステアの気分(笑)。
というわけで、最初は僕の中では最低のオードリー作品。

今の「パリの恋人」の僕の中での位置付けはというと、
50年代のオードリー作品の中でも一番好きな作品なんですよね!
どえらい最初と位置付けが変わってますよね?
これは何度も何度も見直しているうちに、
“あれ?あれれ?なんか凄いぞ、この作品は!”ってんで
どんどん自分の中でのランクが上がって行ったんですね。
楽しいし、美しいし、何度見ても新鮮だし、素敵なストーリーに音楽。

それに、ここでのオードリー、ストーリーに流されて行くだけじゃなく、
自分で動こうと努力しているんですよね。
最後は50年代のオードリーではあるんですけど、
60年代で明確になる“動くオードリー”のハシリは
この作品から始まっているんですね。
もし、“嫌いだから”って理由で再見しなかったら、
この映画の良さに気付かなかった!って思います。
そんなことになったら、えらい損してますよね。あー、見直して良かった!

この作品、カラー設計もすごいですよね!
さすがリチャード・アヴェドン!
アヴェドンはオードリーとすごいゆかりのあるカメラマンですよね。
オードリーがアメリカで一番最初に見たのがアヴェドンだった、
って言ってますしね。
「ジジ」から始まって、晩年のオードリーまで、数々の画像を
残してくれてます。

で、50年代のファッション雑誌をめくるようなタイトルバックから始まって、
日本の、とあるCMでもパロられたことのある編集室のカラフルな扉たち。
そこで展開する「ピンクで行こう!」のナンバー。
時代的にまだフィルムの合成が技術的にうまくいかないためか、
つないでる部分でうっすら筋があったりはするのですが、
もう50年代のファッション雑誌そのもの!
って世界が展開されますよね。
女の子全員の衣装も微妙に違うのがこれまたオシャレ!
これでもかというくらい目にも綾な場面が展開されていきます。
特に、僕の好きなピンクがメインだし!!!
オードリーはまだ出てきてないんですが、
もうここですっかり映画に引き込まれてしまってることに気付くんですよね!
監督も「シャレード」「いつも2人で」のスタンリー・ドーネンだから、
画面も衣装も内容も、もうこれは第1級のオシャレになるのは必然ですもんね!

さて、そのあとで当時世界一のスーパーモデル、ドヴィマが登場し、
そうしてオードリーのいる古本屋に向かうのですけども、
このドヴィマ、声を発すると彫刻のようなお顔にそぐわない声なんですよねー。
なんかどちらかと言うと低めの声で、落ち着いた喋り方なのかな?
と想像するのですけれど、実際に喋ると“キ〜、キ〜ッ!”って感じの
まるでジュラ紀の怪鳥か?みたいな声。
本当にドヴィマがそんな声だったのか、
映画だからそんな声を出させているのかはわからないんですけど、
えらい扱いですよね。スーパーモデルに幻滅しちゃうくらいヒドい。

えらい扱い、といえば、オードリー扮するジョーがかぶれているという
共感主義。これもえらい扱いです。
教祖からしてもうどう見ても、うさん臭いですもんね。
これって当時サルトルが提唱していた実存主義のパロディなんだそうですけど、
「パリの恋人」を見て実存主義の人は怒らなかったんでしょうかね?

でも実存主義だけを笑い者にしているのではなく、
アヴェドンが当時いたファッション雑誌の世界に関しても
最初の編集室でのシーンやドヴィマの扱いで、
さらにはミス・クオリティの発表会で徹底的にカリカチュアライズしてますから、
なにも実存主義だけをヒドイ扱いにしたんじゃないんですよね。
大人であるパリっ子たちもいちいちそんなことで目くじら立てることじゃない!
って思っていたのかも。

で、やっとオードリーが登場するシーンになるんですけど、
古本屋のはしごに上っているオードリーに気付かず、
フレッド・アステア扮するりディック・エイブリー
がその可動型のはしごを勢い良く押してしまうので、
オードリーは“キャ〜〜〜〜〜!”って叫んで端まで行ってガッツーーン!!!
たしかに、たしかにね、画面では最初オードリーがいるってわかりませんよ。
でも、はしごにいるジョーもあんなドヤドヤ入ってきて“いらっしゃいませ”
って言わないのかな?みたいな。
(なんなんだコイツら!って思っていたのかもしれませんけどね。)
ディックやマギーも全体を見渡さないもんなんでしょかねー。

で、こういう突っ込みどころが「パリの恋人」には
やたら多いんですよね(笑)。
でもそんな隙が多い作品である、というのも
この作品を愛してしまう理由の一つなんです。
“隙”と言っても、重要な部分ですきま風が吹いている、という
作品的に出来が悪いって事じゃないんですよ。
むしろ、自分で想像する余地が多く残されている、というべきかな?
この辺はあとで“カリン劇場”でやっていただきますね!
お楽しみに。

2004年7月23日 改訂2004年9月1日
 今回はオードリーはオードリーなりに太ったり痩せてたりしていたというお話。

 まずは英国に渡って以降のオードリーで最も太っていた、というか人生で一番太っていたと思われるのは1949年頃(↓下の写真)。
 オードリーは20才前後ですね。「ハイ・ボタン・シューズ」など舞台の仕事が入るようになって、金銭的にもやっと余裕が出てきた頃。

 オードリーの長男ショーンの伝記で1949年頃って載ってた写真が、僕が見たら一発で違う!とわかったのもオードリーの細さとメイク。
 すんごい細いオードリーが1949年ってなってましたけど、1949年のオードリーといえばむしろムチムチ。
 後にその写真は別のショーンの写真集で1955年と訂正されていました。やっぱりな!

AHHBSs.jpg
(出典:SCREEN写真集)

 まあでもここで少しオードリー的には太くなってたのも、若さゆえでしょうね。
 ちなみに太ももはバレエをやっていたため、オードリーの体型から想像されるより元々太いです。

 その後英国映画に出るようになってからは細くなり、いつものオードリー体型に。

 これが渡米後1953年「麗しのサブリナ」撮影〜1954年舞台「オンディーヌ」まで続きますが、メル・ファーラーと結婚後の1954年〜55年にはマスコミに追いかけ回されたのがこたえたのか、ほんの少し痩せています。

 そのあとは1955年夏に撮影の始まった「戦争と平和」ではいつものオードリーに戻していますが、次の56年春「パリの恋人」の撮影前には撮影に備えて踊りのレッスンをしたことにより、またすっかり痩せてしまいます(↓下の写真)。

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(出典:SCREEN写真集)

 その後56年夏〜秋撮影の「昼下りの情事」、57年2月の「マイヤーリング」まではオードリーにとっての普通くらいに戻りますが、ここで約1年映画の撮影を休んでメル・ファーラーの妻に専念します。

 この間オードリーは幸せだったんだろうなーと思うのですが、1年ぶりに58年1月から撮影の「尼僧物語」で映画に復帰すると少し太っていました。最初のメインタイトルで登場するオードリーは、えっオードリー?っていう感じです。(↓下の写真)

AHNSs.jpg
(出典:SCREEN写真集)

 その後58年夏〜秋撮影の「緑の館」、59年1月から撮影の「許されざる者」と連続撮影で少しずつまた痩せてはくるものの、ハリウッドでのオードリーではこの58年〜59年が一番太い時期でしたね。

 その後は妊娠・出産を経て1960年秋に「ティファニーで朝食を」撮影で映画に戻ってきた時にはまた痩せ気味(↓下の写真。ただしこの写真は裏焼きですね。鼻と口が逆に曲がってます)。

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(出典:映画の友)

 1962年春〜夏撮影の「パリで一緒に」は私生活でも充実していてオードリーにとってのベストコンディションともいうべき状態になっています。この時期がオードリーの美の頂点です。
 残されたスナップ写真を見ても、1962年のオードリーは本当に美しいです!(↓下の写真)

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(出典:SCREEN)

 その後は63年夏〜冬撮影「マイ・フェア・レディ」での全力投球と公開後のバッシングでオードリーがやつれてしまって、65年夏〜秋撮影の「おしゃれ泥棒」でぐっと細くなり、66年春〜夏撮影の「いつも2人で」ではおそらくメル・ファーラーとの離婚のことを考えていたのだろうなーと思われる激ヤセ(↓下の写真)。

 首とか目の周りとか、明らかにやつれています。肌のコンディションも良くなさそうです。
 昔の写真は今のような修正・加工がされていませんので、当時のオードリーの心情がハッキリ顔に現れていますね。

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(出典:ロードショー)

 67年初頭に撮影された「暗くなるまで待って」ではメル・ファーラーのことは既に見切りをつけたのか、普通に戻したものの(↓下の写真)、撮影終了後の別居、68年の離婚でやっぱり心労でまたもや激ヤセ。一時期は身長170cmに対して、体重38kgまで落ち込むというほどだったそうです。

T1002s.jpg
(出典:SCREEN)

 その後はアンドレア・ドッティと結婚して体重を戻してからは、晩年までそんなに大きな変動もなく、大体同じ感じで維持できていたようです。
 といっても、ドッティの女性問題か、当時住んでいたイタリアの治安の悪さでドッティが誘拐されかけたことによる息子たちへの心配もある73年74年辺りと、92年のガンになってからは痩せていますが…。

 結局おデブさんになった事は1度もないにしても、それなりにオードリー的には太ったり痩せたりしていたんですよね。
 さて、今回のオードリー・ヘップバーンに関するデマは
“オードリーは舞台「ジジ」のためにニューヨークに着いた時にはおデブさんだった!”
これです。ついでにネットでのデマ、
“オードリーは太りやすい体質だった!”
というのも一緒にやっちゃいましょう!

 オードリー・ヘップバーンが舞台「ジジ」のために1952年にロンドンからニューヨークにやって来た時のことですが、18日間の船旅の道中、生まれて初めて母親から解放され、好きなだけ食べて好きなだけ寝ても誰にも文句を言われない生活が出来たため、ニューヨークに着いた時にはすっかり太っていた。というものです。

 ここを誇張して、オードリーのドキュメンタリー番組などではその時のオードリーがすっかりおデブさんだったかのようにしているものもありました。

 実際にはどうだったのでしょうか?オードリーの伝記本が何種類か出ていますので、見てみましょう。

・数キロ増えていた(チャールズ・ハイアム)
・15ポンドも増えていた(バリー・パリス)
・太っていたとの記述なし(イアン・ウッドワード)
・はちきれんばかり(アレグザンダー・ウォーカー)

 これ以外の伝記本と言われているもの…ダイアナ・メイチックの物はデタラメなので完全排除、ベルトラン・メイエ=スタブレの物はそのメイチックの伝記を元にしてるので論外とします。詳しくはこちら

 太っていない〜はちきれんばかりまで幅がありますが、特に信用のおけるチャールズ・ハイアムとバリー・パリスの伝記だと太っていることになっているので、まあ太ったのでしょう。

 ハイアムの数キロだと見た目大差ないと思われますが、バリー・パリスのでは15ポンドとなっています。
 15ポンドはキロに直すと6.8kg。確かにそれだけ太ると見た目は変わってきますね。

 そんな太ったオードリーを見て「ジジ」のプロデューサー、ギルバート・ミラーがダイエットを指示。
 その時食べたのがタルタル・ステーキだと言われています。

 タルタル・ステーキといえば、僕にも思い出が…。

 大学の卒業旅行で友人と3人で海外旅行に行った時、パリのレストランでメニューの内容がわからなくて焦りまくっていました。

 今のようにスマホで翻訳して調べられるわけもなく、ましてやかざして翻訳、みたいなのは夢物語だった頃ですから、肉料理が食べたかった僕は、簡単な辞書だかガイドブックだかで調べて、“Tartare” が肉だということがわかり、よかったー!と思いそれを注文しました。

 ところが!その品が届いたら、なんと生肉のミンチではありませんかっっっっ!!!!
 ええええーっ!と大ショックでしたが、恐る恐る、本当に恐る恐る食べてみました。

 でもその当時はそんな料理があることも知らなかったので、周りにある野菜などと混ぜる、ということもせず、肉は肉、野菜は野菜などと食べていたので、全然味もせず、だんだん気持ち悪くなってきてほとんど残してしまいました。

 その日は1日ひもじい思いをしたはずですが、あまりにも生肉ミンチが気持ち悪くて逆に食欲が失せてしまってました。

 なんかその後、テレビの何かの番組でタルタルステーキが取り上げられていて、外国の現地の人にも知られているけど、みんな、“食べなーい!”と答えていてそりゃそうだよねーと思いました。

 今ならタルタルステーキを “オードリーも食べた料理だし!”ってちゃんとかき混ぜて食べたかも…と思います。
 まあ今ならそもそも注文しませんけどね。

 さて、そんなオードリーですが、実際はどれくらい太っていたのか、実際にオードリーがニューヨークの桟橋に着いた時の写真が残っていますので続きを見てください!

続きを読む »

 2014年1月4日に日本初公開されたオードリー・ヘップバーンの「マイヤーリング」ですが、そこで僕は依頼を受けて販売用のパンフレットで “オードリーのプロフィール” “オードリーのフィルモグラフィー” “オードリーと日本”という文章を書かせていただきました(+解説の一部)。

 そのうち “オードリーのプロフィール” に関してはスペースの都合でカットされてしまった部分があるので、それを原稿通りに掲載したいと思います。

 なお、この時の文章に関しては、無料で書かせていただく代わりに著作権は僕が保有する、ということで映画会社の方と合意していますので、掲載する権利も問題ありません。
 ではどうぞ!

↓(ここから)

●オードリー・ヘプバーン  プロフィール

オードリー・ヘプバーンは1929 年5月4日にベルギーのブリュッセルで生まれた。本名はオードリー・キャスリーン・ヘプバーン=ラストン。
オードリーに関する伝記で、“エッダ” が本名であると掲載されているものがあるが、息子ショーンの伝記で否定されている(後述)。

母親は貴族で、バロネス(女男爵)の称号を持っている。父親は、伝記などでは“銀行家” とされているものもあるが、オードリーはこれを否定。“父が長続きした仕事はありません。” とのこと。
両親は争いが絶えず、オードリーが6 才になったばかりの35 年5月に父は家を出て行き、38 年には正式に離婚した。

39 年9月にイギリスとドイツとが戦争状態に。その時オードリーはイギリスの寄宿舎にいたが(この寄宿舎でオードリーはバレエと出会っている)、母エラがイギリスはドイツの爆撃を受けるのではないかと心配し、オランダに連れて帰る。

ところが翌年にドイツはオランダに侵攻。
“オードリー” という名前はイギリス的すぎるので、ドイツ軍に捕まらないよう、母エラは自分の身分証明書の“ E l l a ” の部分に手を加え、“Edd a(エッダ)” と読めるように細工し、オードリーにそれを持たせた。これが誤ってエッダが本名説を生む。

オードリーは靴の中にレジスタンスの新聞を隠して運んだり、得意のバレエをを密かに上演してレジスタンスの資金を集めたり、英語が流暢に喋れるのでアルンヘムの戦いで森で立ち往生しているイギリス軍の兵士にメッセージを届ける役目を負ったりした。
恐ろしいことにドイツ軍の食堂で働かされる女性狩りに捕まったが、連れて行かれたドイツ軍司令部の警備が手薄だったため、隙を見て逃げ出し、危うく難を逃れる。

戦後、オードリーやオランダの人たちはユニセフの前身のUNRRA(国連救済復興機関)から食糧の配給を受け救われる。
オードリーはこのときの感謝を忘れず、晩年のユニセフの活動へとつながっていくことになる。

1948 年、オードリーはイギリスに渡り、奨学生としてバレエスクールに入学。
オードリーは熱心に努力するが、“あなたには成功する肉体も才能もない。” と言われ、舞台に立つようになり、役も大きくなっていった。やがて脇役なのに舞台で光彩を放つオードリーに魅せられる人が増えていき、映画にも出演し始める。

2カ国語で作られた「モンテカルロへ行こう」「モンテカルロ・ベイビー」の撮影を見ていた作家ガブリエル・コレットが“私のジジがいたわ!”と言って、ブロードウェイの舞台で自作「ジジ」の主役に抜擢したのはあまりにも有名。

続いて今度は「ローマの休日」の王女探しのテストを受けることになる。ベッドで寝ているシーンを撮ったのだが、自然な動きを見るため、“カット!” と言った後もフィルムを回し続ける指示があった。オードリーは起き上がって微笑むシーンが撮られ、そのフィルムを見たウィリアム・ワイラー監督やパラマウントはオードリーを王女に決定。
この時の皆を唸らせたベッドで起き上がるテストフィルムは未だに見ることが出来ない。かろうじて過去の「スクリーン」誌などでその時の連続写真が見れるだけ、となっている。

「ジジ」の合間には3 回ほどテレビにも出演しているが、フィルムやビデオが現存しているかは不明。その中には後に「マイ・フェア・レディ」で共演するレックス・ハリスンと番組内の「1000 日のアン」(寸劇?)で初共演している。

53 年には「麗しのサブリナ」を撮影。共演者のウィリアム・ホールデンと恋に落ちるが、ホールデンが子供の出来ない体だと知って破局。

その後は「ローマの休日」のグレゴリー・ペックに紹介してもらったメル・ファーラーと、54 年の舞台「オンディーヌ」で共演、愛を育んで9月に結婚。60 年7月には念願であった息子ショーンが誕生するが、夫婦仲は徐々に修復出来ない状態に。

「マイ・フェア・レディ」では、オードリーの熱演にもかかわらず、歌が吹き替えられてしまったことによるバッシングが発生。アカデミー賞にノミネートもされなかった。これに不満を抱いたアカデミーの一部の会員達からは、“ノミネートされてなくても、オードリーに投票しよう!”という声がわき上がったため、運営側が“ノミネートされてない人に投票しても無効。” と異例の声明を発表する。
「マイ・フェア・レディ」ではイタリアのアカデミー賞と言われるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の主演女優賞を受賞。2004 年の“timeless audrey” 展では日本でもそのダヴィッド像が展示されていた(図録には未掲載だった)。

「暗くなるまで待って」撮影後、夫のメル・ファーラーとは別居。翌68 年には離婚にいたります。
当時の記事では、「暗くなるまで待って」と同じく主演オードリーと製作メルのコンビで再び「マイヤーリング」を映画で作ると言われていたのに、メルがマリーの役を浮気相手のカトリーヌ・ドヌーブに決めたからだ、とか、その逆でオードリーはもう家庭に落ち着きたいのに、メルがまだオードリーを映画に出演させようとしている、などと書かれていましたが、真実は明らかにされないまま。「マイヤーリング」(完成作品は「うたかたの恋」)は関係ないかもしれません。

1969 年には精神科医アンドレア・ドッティと再婚、翌年には次男ルカが生まれるも、夫に女性の噂が絶えず、1982 年には離婚する。

ドッティとの夫婦関係は既に修復不可能なところまで来ていた1980 年、「ニューヨークの恋人たち」撮影中に友人の食事会でロバート・ウォルダーズと知り合い、やがて恋愛関係になる。二人は最後まで結婚という形はとらなかったが、ロバート・ウォルダーズは誠実で優しい男性で、オードリーの最期まで共に暮らし、オードリーにとって生涯最高の伴侶となる。

オードリーは子育てに専念していた1970 年に「愛の世界」というユニセフのテレビドキュメンタリーにも出演したりしているが、実際に深く関わってくるのは1987 年頃。その後89 年にはユニセフ親善大使になり、実際に世界中の悲惨な現実を目の当たりにし、支援を訴えるようになる。
それまでは“質問がプライベートに及んだ時は、即終了。” と言われていたインタビューでも、子供達を救えるなら、と進んで自らのことを話すように。

92 年に訪れたソマリアから帰った後、腹痛を訴えるようになり、診断の結果癌であると告げられる。アメリカで手術するも手の施しようが無く、“余命3 ヶ月” と宣告されるが、その時でもオードリーは自分よりも世界の子供達を心配していたという。

長年の友人、ジバンシイが顧客に頼んで手配してもらった自家用機に乗ってスイスの自宅に戻り、クリスマスを家族で過ごす。
翌93 年1月20 日、永眠。享年63 才。愛したスイス トロシュナ村が見渡せる丘に眠っている。

以前は日本だけがオードリーの人気が高い、と言われていたが、1987 年頃から全世界でオードリーの再評価が起こり、現在でも世界中での“伝説のスターは?” “最も美しい女性は?” などのアンケートでオードリーがトップ、あるいはそれに準じる位置をキープしている。
女優のジュリア・ロバーツ、ナタリー・ポートマン、サンドラ・ブロックなどがオードリーを崇拝していることを明かしており、現在のスターにもオードリーのファンが多い。

また、ファッション界でもオードリーはアイコンとなっており、ジバンシイはもちろん、他のブランドでも2000 年代に入ってからも何度もオードリーをモチーフにしたデザインが発表されてランウェイを飾っている。

未だにフランス、フィリピン、ギリシャ、イギリス、日本などでオードリーの映画はリバイバルされ続けており、アメリカ、イタリア、スペイン、ドイツ、フランスなど世界で写真集が毎年のように発売。雑誌でも表紙を飾り、カレンダーにいたっては、毎年世界で20 種類以上も発売され
ている。
2012 年イギリスではCG で復活したオードリーがチョコレートの宣伝に登場し、世界があっと驚いた。
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 1950年代後半、オードリー・ヘップバーンの異父兄が横浜に住んでいたことがわかっています。

 これは僕は最初はなんで知ったのでしょうか?なんだか覚えていませんでしたが(後述)、記憶には刷り込まれていて、そのオードリーの兄を頼ってオードリーの母のエッラが1957年に来日したこと、母が松竹セントラル劇場で「昼下りの情事」を観たことはしっかりずっと覚えていました。

 2000年代になって手に入れた、1957年初公開当時の横浜の松竹ピカデリー劇場独自の「昼下りの情事」のパンフレット(昔は大きな劇場では劇場独自の映画パンフレットを製作していた)ではその母の様子がもっと詳しく書かれていました。

 “東京の松竹セントラル劇場でのロードショーもまったく人気が出ていて、十六日の昼二日目には、オードリー・ヘップバーンのお母さん、エラー・ブァン・ヒームストラーさん(横浜に滞在中)がヒヨッコリ顔をみせて、二階の指定席でじっくり鑑賞した後、観集に紹介された。この日女優の加賀ちか子さんから花束を贈られ観客の拍手にこたえた。
 オランダ貴族らしい上品な態度で、娘の映画はよく見ますが批評めいたことは一切いわないことにしていますと語った。”
(漢字や表記の仕方や日本語の使い方の間違いも含めて、印刷されている原文のままの文章)

 さて、もうだいぶ前ですが、ネット社会になってからふらふらとネットサーフィンをしているとオードリーの兄が日本にいたことについて書かれているサイトを見つけました。
 ところがそのサイトではネットでも長兄のアレクサンデルだったのか次兄のイアンだったのかがわからない、というのと、住んでいたのは練馬だったとか、記事が進むにつれて結局イアンの方だろうということになっていました。

 そのサイトでは僕が2007年に「オードリー・ヘプバーンといつも2人で」の方で書いた上記の「昼下りの情事」横浜ピカデリー版パンフレットがコメントのリンクで貼られていて、そこでもオードリーの兄がどちらかがわからない、とされていました。

 そのサイトは2010年を最後に更新が途絶えていて、残念ながら連絡のしようがありませんので、もっと詳細な話を伺うことはできませんでした。

 ちなみにオードリーには二人の異父兄がいます。
 長兄はアーノルド・ロバート・アレクサンデル・クアレス氏、次兄がイアン・エドガー・ブルース・クアレス氏。
 さて、日本に来ていたのはどちらなのでしょうか?

 実はその時には僕はもっとしっかりした証拠を持っていて、日本に来ていたのは長兄のアレクサンデルの方である、というのは掴んでいました。

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 その証拠となるものは1957年5月号の“映画の友”誌
 そこでは当時日本に居た長兄のアレクサンデル氏本人がA・R・A・クアレスですと名乗って「映画の友」誌のインタビューに日本語で答えています。写真付きで。

 そこで語られていたのは、私は横浜に住んでいる、ということで上記のサイトの練馬は全く関係ありませんでした。
 おそらく噂話が一人歩きしたのだろうと…。
 家族構成もアレクサンデル氏とは全く違うようですし。

 もしかしたらオードリーの長兄が日本から離れた後に後任でやって来た方だったのかもしれませんね。
 それでオードリーの兄という尾ひれが付いたのかもしれません。
 当時外国人はとても珍しかったであろうと思われますし。
 (実際、そのブログの中でも、外国人の女の子を“オードリー・ヘップバーン”だと思い込んでいる子供の話が出て来る)

 さらにアレクサンデル氏は自分が販売部長であると語っています。
 来日は1954年12月。そこから9ヶ月の日本語の特訓を受けたことも答えていました。
 NHKの「私の秘密」というクイズ番組にも出演したことも書かれていました。
 (さらにいうと、アレクサンデル氏はオードリーのことを“オードリーさん”と言ってます。)

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 これは2014年に日本で劇場公開された「マイヤーリング」のパンフレット用のエッセイを2013年9月に映画会社から依頼された時にもハッキリ長兄のアレクサンデル氏が横浜にいた、と書きました。

 さてさらに最近になって、やはりネットサーフィンで「横浜歴史さろん」というサイトでカセイジンさんという方がオードリーの兄について書かれているのを見つけました。

 そこでは横浜にいたのはイアン氏で、シェル石油で支社長をしていて、1953年に入社したカセイジンさんのお父さんの英語の新人研修をされた、ということになっていました。

 えーっ、これほんと?アレクサンデル氏の間違いじゃないの?次兄イアンが日本に居たなんて聞いたこともないよ〜!しかも支店長??と思って直接そのサイトにメールで問い合わせました。
 もしイアンがアレクサンデルと一緒に来日していたなら、それはそれでスゴイ発見です。

 ただし、練馬にいたというサイトでも支店長だと書かれてましたが、支店長は多分に眉唾物だと思っていましたので、こちらは昭和シェルにも問い合わせました。もし支店長クラスなら資料があるのではないかと。

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 さすがに1950年代では古すぎて昭和シェルでもわからなかったのですが、いくら当時は日本が下に見られていたとはいえ、1953年当時だとオードリーより5歳上のイアンならまだ29才。その年齢で支店長はほぼ100%無いですね。
 長兄のアレクサンデルでも33才。やはり支店長には無理がありすぎます。

 特にオードリーの兄達は戦時中にイアンはナチスに捕らえられていたり、アレクサンデルは地下活動をしていたので、オランダが解放された1945年にすぐシェル石油に勤務したとしても8年で支店長は無いと思われます。

 さて、丁寧に書いていただいたカセイジンさんから帰って来たお返事ではお父様から聞いたのは姓がバナレス・クオレスということで、実際にはイアンだとは語られていなかったということでした。

 また、53年にはアレクサンデル氏は来日すらしていなかったのですが、それはお父様が53年入社ということと、“英語の新人研修”というだけで年度はわからなかったとのこと。

 これはお父様の英語の研修は53年ではなさそうですが、55年頃であっても、オードリーの兄に英語を教えてもらえるなんて、これ自体は凄いことですよね!

 のどかな1950年代の横浜で、オードリーの本当のお兄さんにどこかの研修所で英語を教えてもらってる、なんて想像しただけでもホワーンとします。

 さて、支店長だったという部分ですが、1953年当時のことではなく、こちらは別の元になった資料があったということで、その新聞に載った資料を見せていただきました。

 元になったのは2002年3月2日付朝日新聞朝刊第2神奈川版。そこでは西丸與一さんという法医学者の方の思い出話が載せられています。

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 こちらから話が膨らんで、「横浜歴史さろん」さんの方でも楽しい記事をということで、もしオードリーが1970年代に来ていたら?とカセイジンさんの文章が載ったそうです。

 さて、西丸與一さんの文章ですが、こちらはご本人と連絡を取る手段が(手を尽くしましたが)わからないので確認のしようがないのですが、いくつか大きな疑問点があります。

 2002年の25年以上前となると、最低でも1977年以前の話になりますね。

 でもオードリー・ヘプバーンの来日ですが、1983年が最初です。
 1977年以前に日本に来た、ということは当時の映画雑誌でも全く語られていません。

 もしかしてお忍びで?とも思えますが、当時のオードリーはリアルでとても日本で人気があったので、初来日なのにとてもとてもお忍びで来れるとは思えません。

 もっと決定的なのは、1983年の来日前(2月2日)に雑誌“マリ・クレール”誌で3pに渡って受けていたオードリー自身のインタビューでの発言。こちらも手元に持っています。

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 インタビュアー:あなたは今まで、日本に一度もいらっしゃらなかったでしょう?
 オードリー:ええ、何度もご招待を受けながら、一度も実現できなかったのです。

 他にも個人的な資料なのですが、以前こちらのサイトに来ていただいた事のある方から、1983年の来日前に海外の空港でオードリー本人と会った方とメールを交換した事があります。

 その時にオードリー自身が “今度4月に日本に行くのよ。初めて日本に行くの!スゴく楽しみ!”と言っていたという事実。その方にその時オードリーと一緒に撮った写真も見せていただきました。

 オードリーは嘘をつかない人なのですが、オードリー自身が日本には一度も行ったことがない、と2度も断言しているのです。
 もし過去にでもお忍びで兄に会いに来ていたら、その時のことを語っていたでしょう。
 ということはやっぱりオードリーは83年以前には来日していない、と結論づけていいと思います。

 1983年に初来日して奈良ホテルや京都に行った際にも、オードリーは日本人の歓迎ぶりや礼儀正しさに感激しています。

 その時のオードリーの反応なども奈良ホテルの従業員の方や、オードリーの次男のルカ・ドッティ氏のオードリーの伝記によって語られていますが、やはりそこでのオードリーは“初めて”を体験している人の反応です。

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 その時の日本旅行(1983年時には家族揃って日本に来ていた)は後々オードリーの家庭でもずっと語られるほどオードリーにとってもルカにとっても思い出深いものとなったようですが、そのルカの伝記でもオードリーがそれ以前に日本に行ったことがあるとは書かれていません。

 さらに、1971年にオードリーは日本の「エクスラン・ヴァリーエ」のCMに出ていますが、撮影は当時住んでいたローマ。この時のインタビューでも「いつか日本に行きたい」と語っているので、やはりそれ以前には無かったこともわかります。
 
 それにこの西丸氏の文章ではオードリーの兄は “ヘプバーン氏”と書かれていますが、オードリーの兄はオードリーの異父兄ですから、ヘプバーン姓ではありません。

 アレクサンデル氏は“映画の友”誌でも自分を名乗る際には “クアレスです”と語っているように、ヘプバーンなどと自分のものでは無いオードリーの父方の姓のヘプバーンを名乗ることなど有り得ないのです。

 さて西丸氏の文章が作り話や思い違いではなく真実だったとすると、唯一可能性があるのが1959年。

 この年、オードリーは「緑の館」公開の宣伝の為に5月に来日する予定がありました。
 ここなら西丸氏の“25年以上前”という日付にも、離れているものの合致します。

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 ただし、1959年は1月から撮影に入っていた西部劇の「許されざる者」でオードリーは落馬。腰を骨折してしまい映画の撮影が延びてしまいます。4月にクランクアップしますが、腰のためにコルセットはつけたままで撮影しており、当然まだ無理できない状態。さらに撮影後に当時身籠っていたお腹の赤ちゃんを流産してしまいますし、その後には再度妊娠しています。
 結局どのタイミングでも無理はできないということで日本行きはキャンセルになってしまいます。

 この時期ならオードリーの兄のアレクサンデルもまだ日本にいるでしょうし、オードリーが来る予定があった、ということにも無理がありません。ただ、実際には来日はしていませんが。

 それと、70年代後半だとそこまでオードリーの兄が日本にいたということになってしまいますが、それもまた無理があります。

 これは1970年代に出版されたオードリーの2冊の写真集、「カタログ オードリー・ヘプバーン」と「シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン」を紐解いてみます。
 この2冊は僕がオードリーの兄が日本に居た、ということを知ったきっかけになった本です。

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 これら2冊の写真集は、今見てもオードリーの写真集の中でも最優秀の部類に入るもの。
 今となっては珍しい写真と豊富な記事によって、オードリーを知る資料としてもトップランクです。

 そこで載っているオードリーの兄の来日に関することでは、

 「カタログ オードリー・ヘプバーン」(1977年発行)…年譜のところに“異父兄が二人。うち一人は後にシェル石油の販売部長として日本に勤務”の記述
 
「シネアルバム5 オードリー・ヘプバーン」(1971年発行)…南俊子さんの文章で、“長兄のA・R・A・クアレスは、シェル石油会社の駐在員として来日し、十数年前だか横浜に住んでいたことがある。どこかオードリーに面差しの似た、物静かなハンサムな紳士であった。次兄は当時ジャカルタで父親とコブラの事業に従事していたと聞く。たぶん長男を頼ってであろう、ひっそりと来日した母親エラが、築地の松竹セントラル劇場で「昼下りの情事」を鑑賞している姿が見られた。”の記述

としっかり当時を知っている方の手で書き残されています。

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 僕はといえば、当時は兄のことよりも母が日本に来ていたことの方が重大事項で、そのことは覚えていましたが、兄がどちらだったのか、ということはすっかり記憶から落ちていました。

 でもここでわかるのは、オードリーの兄が日本にいた、ということは71年の段階で既に過去形だったということ。
 西丸氏の書いていたように、77年頃にもまだ居たら、きっとそれらの写真集でも “現在も在住”と書かれていたと思われます。

 あと、“映画の友”誌でのアレクサンデル氏のインタビューでも、「シネアルバム」でも弟のイアンはジャカルタで父とコブラの仕事をしている、と書かれています。

 コブラの仕事ってなに〜!?と思いますが、ジャワではアレクサンデル氏の父の仕事で集めたコブラの油から石鹸やマーガリンを作っていたそうです!石鹸はともかく、食べるマーガリンにコブラの油ってイヤーー!と思いますよね。
 
 兄が弟の居場所を間違えるとも思えませんので、イアンが日本にいた、という可能性はほぼ絶たれたと思います。

 というわけで、日本にいたオードリーの兄はアレクサンデル氏、そして肩書きも本人はマネージャーと言っていたようなので、支店長だと誤解を受けたのでしょう(マネージャーって会社によって役職に幅がありますもんね)。
 さらに、50年代の終わりか60年代初めには日本からは離れていた、と思われます。

 惜しむらくはNHKの「私の秘密」ですよね。もし現存していればもっとオードリーのことをテレビで語っていたと思うのですが、アレクサンデル氏が出演したであろう1956年や1957年は当時録画で使用されていたキネスコープレコーディングやオープンリールの2inchVTRは非常に高価だったために、使い回されていたらしく現存していません。
 なにせあの大河ドラマですらNHKに完全版で現存していたのは1980年のものからだそうなので。

 なお「横浜歴史さろん」さんのカセイジンさんの文章にはその後次兄ではなく長兄であった、という訂正文が記事の最後に掲載されています。


 今日はオードリーと煙草に関して書いてみたいと思います。

 オードリーはヘビー・スモーカーで知られていますよね。
 最近はオードリーとタバコの関係についてあまり触れないことが多くなってきましたので、若いファンは知らないかもしれませんが昔ながらのオードリーファンなら誰でも知っていることです。

 ヘビー・スモーカー…というより、チェーン・スモーカーと言ってる文章もよくありましたね。
 終わったらすぐ次、また次とまるで鎖のように途切れずに吸い続けていることをチェーン・スモーカーと言います。

 実際カメラの前に立っている時はタバコを喫っていませんけど、カット!の声がかかるとオードリーはすぐにタバコを喫っていたそうです。

 愛用はKENTだったと言われていますよね。映画「いつも2人で」の冒頭のシーンで、飛行機に乗りながらKENTを買って喫うシーンがありました。

 また映画の撮影風景でも、撮影を待っているオードリーがタバコをふかしている画像が数多く残されています。

 映画の中ではどうでしょう。オードリーが煙草を喫うシーンがある作品は、「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」「パリで一緒に」「シャレード」「おしゃれ泥棒」「いつも2人で」「華麗なる相続人」「おしゃれ泥棒2」と8作品におよびます。

 10代を演じていた1950年代では「ローマの休日」以外にはありませんが、20代を演じるようになった1960年代にはかなり多くなりますね。

 でもこれを読んで “えーっ、幻滅!”って思うのはちょっと違うかと…。
 昔はタバコを吸うのはごく当たり前のことでした。

 海外の俳優さんなんか、というか大人はタバコを喫うのがあまりにも普通だったんですよね。
 だから大抵の俳優さんは喫っていました。

 日本でも当たり前。道はもちろん、映画館や新幹線の中や在来線の駅のホームでも誰にことわるでもなくタバコが喫えた時代だったんですよ。
 通勤電車の中にも快速などは灰皿がありました。

 さてそんなヘビー・スモーカーのオードリーですけど、いったいいつから喫い始めたんでしょうね。

 オードリーの伝記で昔から書かれていたのは、オランダがドイツ軍から解放された日、町にやってきたイギリス軍のタバコの匂いが、自由の匂いがした!とオードリーが思ったということ。

 確かにそんな嬉しい日に嗅いだ香りが、記憶の中にセットで取り込まれたのはさもありなん、と思いますよね。

 で、オードリーも1本もらって喫ってみたところ、むせてしまったけど、それが自由の味なんだ!と思ったと書いてある本もあります。

 そう!オランダが解放されたのはオードリーの16歳の誕生日の翌日、1945年5月5日だったんですよね。

 今はオランダの喫煙可能年齢は18歳に引き上げられていますけど、2014年までは16歳だったとのこと。
 オードリーにとって、大人になった日と戦争が終わったことと煙草がセットになったんですよね。

 それ以降すぐにオードリーが喫煙者になったかどうかは全く資料がないのですが、当時のオードリーは戦争が終わった直後で食べるものもお金もない状態。
 そんな中で嗜好品であるタバコを買う余裕はなかったと思います。
 それにオードリーはバレエの奨学金を貰うためにバレエの練習に余念がないはずですしね。

 でも1948年に母と2人でイギリスに渡ってからは、バレエの奨学生だったとはいえ、あまりにも高い背と戦争中の練習不足と栄養失調で早々にバレエ学校からは見切りをつけられてしまいます。

 もし残っていたらバレエでも大成しただろうという文章と、オードリーには才能がなかったという文章と、両方の伝記がありますがどっちなんでしょうね?
 
 でも英国では一度もバレエで舞台に立っていない、それにもし才能があれば指導者としてバレエ学校が引き止めただろうと考えると、後者の才能が無かった、という方が正解だと思います。
 実際信頼できるバリー・パリスの伝記でも後者になっています。



 そうするとオードリーはバレエ以外で収入を得ないといけない羽目になり、やがて舞台作品の群舞などに出演するようになります。

 「辛いソース」などの舞台ではちょっとした役も付きましたが、それは昼公演もありましたが、夜は規模を小さくしてショーパブみたいなところで演じることもありました。

 きっとそういう時期には周りの環境でタバコを喫う習慣がついてしまったことと思います。その時期には自分でお金を稼いで自由になるお金もできていたでしょうし。

 その後イギリス映画に出るようになり、1951年〜52年にはアメリカの舞台「ジジ」で主演を張りますが、元々原作のジジの役は “タバコも喫うし、お酒も呑む16才の純真な娘”という今考えるとおかしな設定ですしね。

 「ローマの休日」で初めて煙草を喫うシーンでは、全然むせないしサマになっているのは、オードリーの喫煙習慣がもうすっかり定着しているからですよね。

 で、「ローマの休日」のスナップ写真では煙草を喫っているものは見当たらないんですが、次の「麗しのサブリナ」では髪の毛をセットしながらキセルで煙草を喫っている画像が何枚も残されています。

 その後の「戦争と平和」「緑の館」「尼僧物語」「噂の二人」「マイ・フェア・レディ」など、役柄上タバコを喫えない作品ではもちろん映画では喫っていないのですが、それらの作品でも撮影合間の写真ではオードリーがタバコを喫っているものはいっぱい残されています。

 そして「ティファニーで朝食を」になると、もうこれはタバコが無くてはならない小道具になってますよね。
 そして当時のアメリカの習慣がわかるのがパーティーのシーン。
 男女問わずタバコを喫うのが当たり前だったのが一目瞭然ですよね。灰皿などは無く、床に灰を落とすのが一般的。
 それを誰もなんとも思ってないのがわかります。

 さらに「シャレード」になると、当時はフィルターさえも出たばっかりだったのか、オードリー演じるレジーナが “これは嫌い!”と言ってフィルターをちぎって両切りタバコの状態にして喫うシーンがありますよね。

 そしてオードリーは晩年までタバコを喫煙していましたが、これは良いとか悪いとかではなく、当時は普通の習慣だった、という時代を考慮しないとダメですよね。

 オードリーは1929年生まれ。もう90年も前の人なんですから、そんな人に今の時代の価値を当てはめるのもおかしな話。

 ということで、ここからはそんな今の時代の価値をオードリーに押し付ける文章があるのに反論。

 オードリーとタバコで検索すると、嫌煙者の文章でオードリーがスモーカーズ・フェイスだという文章にいくつか出会います。

 確かにオードリーは晩年にはシワも増えましたし、戦争の影響で細いままだったのが逆に老けて見える要因にはなってましたよね。

 でもそういうオードリーを引き合いに出して、“はい、スモーカーズ・フェイスです!”は無いんじゃないの?と思いますね。

 その文章がかなり失礼なのは、全くオードリーのことを調べずに書いていること。

 しかも中には “晩年には見れたもんじゃ無かった” と今の時代、完全に女性蔑視でセクハラでアウトな文章を書いているエライ男性までいますしね。

 そういう文章をコピペしたような “オードリーはスモーカーズ・フェイス。恐ろしいでしょう!” という煽り商法の手口でタバコを断罪する他の文章にも違和感しか感じません。

 当時は誰でもタバコを喫っていたんですよ。オードリーと同時代のグレース・ケリーやエリザベス・テイラーや、ちょっと後のカトリーヌ・ドヌーヴとかも喫っていましたが、それらのどっちかっていうと後年太った人たちには何も書かないんですよね。
 たまたま細くてシワが目立ったオードリーだけが吊し上げられています。

 そんなオードリーばかり取り上げるってことは、実はスモーカーズ・フェイスにはほとんどならないってこと?
 オードリーしか取り上げる人がいないくらい、確率的にならないの?みたいな疑問も生まれますよね。

 しかもさっきも書きましたが、そんな失礼な文章を書いた人はオードリーのことを全然調べてないこと。

 オードリーが「ティファニーで朝食を」でタバコを喫い始めた…これ、上に書きましたけど全然違いますよね。

 しかも次に「パリで一緒に」の写真を持ってきて5年でこれ!って…写りの悪い、濃い印刷の、自分に都合のいい白黒写真を持ってきて、どうよ!的文章。

 ちなみに「パリで一緒に」は公開は1964年ですけど撮影は1962年。「ティファニーで朝食を」の撮影は1960年ですからわずか2年後ですから。
 偉そうに書く前にそれくらい調べてよ。もうここで都合のいいように文章を操作しているのが丸わかりですよね。



 それに映画を見るとわかりますが、「パリで一緒に」は最もオードリーが美しかった作品!
 もう全然オードリーの映画見てくれてませんね。

 他にも「ロビンとマリアン」「華麗なる相続人」の写真など、煽るために都合のいいシワが多く老けて見えるような写真を引き合いに出してタバコを貶めるというやり口。

 ちなみにオードリーの口の横のシワは実は20代の頃には付いてました。
 最近の画像修正しまくりの写真集では消されてますけど、70年代に出たカラーで見れる写真集などでは「戦争と平和」や「パリの恋人」や「昼下りの情事」の頃からしっかり付いてますよ。
 モノクロ写真は当時から多少修正入ってますからわかりにくいですけど、「ローマの休日」だってあるはずです。

 タバコがいいとかそういう風には全く思っていませんが、都合のいいように情報を操作する手段がイケてません。
 ネットでよく見る、画像修正した写真を使用前使用後と偽って売ろうとする、いかがわしい商品と同じ手法ですよ、それ。

 しかもそれらのサイトに載せているオードリーの画像、あなたどこから持ってきました?
 あなたが自分の持っているオードリーの資料からスキャンしたものでもないですよね?
 出典すら書いてませんけど…。

 どこかのサイトからパクってきた無断掲載の都合のいい画像と、都合のいい細いもう亡くなったオードリーを使って “ほーら、タバコって怖いでしょう?” って言われても…反感買いますよそれ。

 しかもそういう類の中には “もうオードリーの映画は上映して欲しくないです。心の中にしまっておけばいいじゃないですか” などという文章があるところまで!

 いやいやいや、それあなたが見なければいいだけですよね?タバコのシーンだけでそれを皆に見ない・見せないように押し付けると??
 それに元々あなたオードリーの映画一部しか見てないでしょ?

 タバコは害だらけ…そんなのは言われなくてももう常識ですよね。
 昔の映画を見て、タバコが粋でカッコよくて真似したい!なんて今時の若い子の感覚なら誰も思わないんじゃないかな〜…。

 僕も以前は喫ってましたが、もう禁煙して14年になります。なので喫煙者の気持ちもわかりますが、今ではタバコの匂いはキライです。タバコを喫っていた人の側に行くと、すぐにわかります。

 でもタバコをやめさせたいのはわかりますけど、自分たちに都合よく・勝手に・パクリで・セクハラで・上から目線で・調べもせずに・オードリーを使うのは違うんじゃないの?ということ。

 もうオードリーがスモーカーズ・フェイスかどうかは関係なく、そういうのをなんか肩書きだけ素晴らしい人が書いてるとその人の中身が透けて見えて逆にガッカリ感が凄いです。
 自分たちの目的のためには手段を選ばないのね、みたいな。

 なんか以前読んだ筒井康隆の「最後の喫煙者」っていう短編を思い出しました。
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 2018年3月16日のJR東日本“大人の休日倶楽部”で講演をしてきたついでに、念願だった「エクスラン・ヴァリーエ」を見るために数日後に横浜まで行ってきました。
 今回はその時のレポートです。

 行ったのは21日だったかと。
 横浜そごうで23日から開かれるオードリー・ヘプバーン展の前売り券を買おうと思って降りましたが、横浜そごうでは前売り券はなかったのは以前こちらの記事で書きました。

 そこから向かったのは放送ライブラリー。
 行きはみなとみらい線で日本大通り駅で下車。3番出口を出て上がっていくと横浜情報文化センターと直結してました。
 放送ライブラリーはその8階。

 総合受付でブースの番号札をもらい、そのブースへ。

 そのモニタの下にあるタッチパネルで番号や名称で検索していきます。

 このタッチパネルがですね、正直古臭いです。
 電子機器は時代とともに進歩していくので、導入した際は新しかったでしょうけど、今ではかなり時代遅れ。

 例えば名前で検索しても降順でしか表示できないので、後ろの方だったりするともう大変!
 あ・か・さ・た・な みたいにしか選べなかったと思うんですけど、“あ”行とかめっちゃ多いんですよね。その中で“お”で始まるものを探すのは大変なわけです。

 こういうのはガッチガチに全部固めてしておくんじゃなくて、時代とともに変えていけるようにしておいたほうがいいかも…とか思ってました。

 そういえば図書館のマイクロフィルムとかも相当時代遅れの技術ですよね。
 でも図書館てどういう決まりなのか、いまだに過去の書籍とかをマイクロフィルム化してるんです。

 僕もオードリーのものを調べに図書館とか行くことがあるんですけど、マイクロフィルムって文字通りフィルムなんです!

 それを特殊な装置に自分でセットして手動でガラガラ回して見たいところを探すというめっちゃ原始的な方法。
 希望のページとかの指定もできないし、すっごいめんどくさいです。 

 今ならPDF化した方がずっと見やすいし探しやすいのに、なんででしょうね。

HLPN.jpg さて「エクスラン・ヴァリーエ」ですが、ネットで探しておいたのはこちら

 秒数が60秒になっているので、これは15秒×4本という「エクスラン・ヴァリーエ」の全部が見れるのか!?と期待して行ったのですが…。

 見てわかったのは、これは総集編であるということ。15秒が4本ではありませんでした。残念!
 未だに全容は見れないままですねー。

 でもここで見れるのは、以前WOWOWがオードリーのドキュメンタリー内で放送した総集編ともまた違うタイプ。
 それはとても嬉しい収穫でした。
 
 それと、実際には1971年5月撮影、7月からテレビ放送開始なのに1972年度になっているのはこの総集編の放送タイミングが1972年だったからなんだろうなーと思っています。

 結局オードリーとは1971年に撮ったきり。その後は改めて撮り直したりしていないので、1971年5月に撮ったものを延々何度も編集し直して1972年にも使い回して放送していたんだろうなーと。

 なお、この視聴ブースでの見ている番組の録画・録音は禁止。スマホを使用することも禁止です。
 なので僕もこの「エクスラン・ヴァリーエ」を記録するのに紙をもらって書き留めていきました。

 勝手にスマホで録画や録音しないように係員がずっと巡回しています。
 皆さんも決して勝手に盗み撮りとかやめてくださいね。

 さて、帰りはJRの関内駅から帰りました。徒歩で駅まで行くのも気持ちよかったですよ。

 皆さんももし「エクスラン・ヴァリーエ」を観てみたいときは横浜の放送ライブラリーに行ってみてください。

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 さて肝心の内容ですが、文章では伝わらないと思いますが書き留めておきますね。

 まずはオードリー絶対の顔の左側から、お下げバージョン(赤ストライプシャツ)で登場。
 BGMはもちろん由紀さおりさんの「ヴァリーエ」。

 首を傾げて組んでいた手を頬に。
 ちょっとこのアップはオードリーの口の笑いジワが目立つかも…。

 次に金髪バージョンに切り替わり、傘を持った手に首を乗せて傾げる。

 すぐにブラックドレスバージョンになって髪を触って首を傾げる。

 また切り替わってクリクリヘアバージョン(ドレス茶色)。木の横で首を傾げる。

 ここまで全部首を傾げるシーンを集めてます。もちろん全部顔の左側を見せています。
 シーンが切り替わる際は真ん中から丸く次のシーンが出てきます。

 続いてお下げで降りてくるシーン。
 ブラックドレスの葉っぱを持ってのアップと振り向くシーン。
 くりくりの馬車に乗っているシーン。オードリーは一瞬後ろを見て元の体勢に。
 ここの歌詞は♪わーたーしのためー♪の部分。
 と続きます。

 次はくるくる回転するお下げの写真。♪近づく〜気配が〜♪

 金髪の川下りシーン。ロングショットと左側にオードリーのアップのシーン。♪ひーそーかーに♪

 くりくり。バストカットで木の周りを歩くオードリーを2パターン合成。
 そのうちひとつだけになって木の陰の向かって右からと左からで顔を出して微笑むオードリー。
 この辺りで男声ナレーションが入り始めます。

 ブラックの写真のアップから引きへ。

 金髪。目のアップ。

 お下げ。水車前の写真。

 最後はお下げバージョンの赤い大きな帽子のバージョンで、帽子の大きなつばを顔の横で押さえている横向きのオードリー。
 正面に向き直って帽子のツバから手を離してピョンと弾くオードリー。一番可愛い笑顔で顎に手を乗せるオードリーで終わりです。

ナレーション:
 (男声)エクスランヘア・ヴァリーエはどんなスタイルも思いのまま。さ、どのヴァリーエから始めましょうか?
 (女声)マイ・ヘア
 (オードリーの声)ヴァリエ〜!
 (男声)エクスランです。

 エクスラン・ヴァリーエのオードリーはアイメイクの下のラインが濃いめで上目遣いが多いためか、ちょっと三白眼気味に見えることが多いです。それが残念。

 それと笑顔がなんとなく全盛期の天地真理のイメージとダブりました。 



 オードリー・ヘップバーンの作品「昼下りの情事」の中で、髪を洗うオードリーのアリアーヌに対してお父さんのモーリス・シュバリエが言うセリフがあります。

 “この3週間で17回もシャンプーしている。なんだかとても怪しい。”
 ここ、えっ!普通は毎日洗わないの??と思った方もいらっしゃるんじゃないでしょうか。

 これに関しては別の方のブログに資料が載っていました。
 “リンク等ご自由に”とのことでしたので、貼っておきますが、こちらに昔の洗髪の事情が書かれています。

 それによると、
明治時代
 1906年…少なくとも六週間に一度
 1911年…少なくとも月一回くらいは洗浄して
大正時代
 1914年…男子は一週間に一二回婦人は月に一二回洗髪して
昭和時代
 1926年…冬は少なくとも月に二回はするようにし春から夏へかけては月に三四回は

だそうです。今考えるとかなりコワイです。

 さらに、“1950年代でも月2回とか夏は5日~10日に1回とか(中略)1960年代でも、2週間に3回、1970年間近で1週間に1度とかの場合も、美容の本での推奨”とのこと。

 そう、ここで載っているのはあくまでも美容の本での “推奨”なので、現実の一般人ではもっと少なかったと推察されます。中には40年50年洗わない人もいたとか…。

 僕は美容師の息子だったので全然意識せず、美容院用の高級シャンプーを使って70年代は2日に1回洗うのが普通でした。



 それが毎日に変わってきたのは80年代、松田聖子の聖子ちゃんカットに代表されるようにブローが一般的になってきてからです。

 それまではブローという技術はなく、今なら簡単にカットとブローだけで作れそうな1953年撮影の「麗しのサブリナ」のヘアスタイルもピンカールでパーマ&セットの技術で作られていました。

 「おしゃれ泥棒」の髪型もピンカールで作る方法が載っているパンフレットも存在します。

 1943年の映画、「誰が為に鐘は鳴る」のイングリッド・バーグマンの髪型を、ファンがどうすれば維持できますか?という問いに、“これはヘアメイクさんが常に付きっ切りだから出来るのよ”と言っていたという逸話がありますが、当時は髪型を作るのは大変なことでした。

 オードリーも撮影中は髪型を維持するために、ヘアメイクさんが付きっ切りだったことと思います。
 この「昼下りの情事」のページボーイの髪型も難しそうで、多分素人では作れない髪型だと思います。

 今では夏場やスポーツをする人は1日2回の洗髪も当たり前にあるんじゃないでしょうか。

 でも欧米では多少違ったにせよ、昔は5〜10日に1回の洗髪などという状況ですから、「昼下りの情事」の撮影&公開当時は21日間で17回の洗髪は “怪しい!”と思われるほど異常に多い数字だったのだろうな〜と思われます。
 やはり好きな人の前ではキレイでいたい女心ですよね。

 「ローマの休日」のヘプバーン・カットが公開当時に日本で大流行したのも、“当時は頻繁に髪を洗ってない人が多かったから、手入れが楽だったからだよ”という記事もありましたし、本当に1週間に1度くらいだったのでしょうね。

 物凄く臭そう!…と思いますが、みんな洗ってなかったのであんまり気にならなかったのかな?



 なお、シャンプー事情についても少し言っておくと、昔の1か月に1回しか洗わないような時代には強力に洗う力が必要なので石鹸が有効だったのでしょう。

 それが2〜3日に1度になると石鹸じゃあキツすぎるということでラウレス硫酸ナトリウムなどの洗浄剤(界面活性剤)の入ったシャンプーが出てきて普通になってきましたし、今でも市販の物では主流です。

 でも毎日や1日に2回も洗うとなるとそれも洗浄力がキツすぎるので、僕としてはアミノ酸のシャンプーをお勧めします。

 シャンプーも日進月歩で進化しているので、より良い自分に合ったアミノ酸シャンプーを見つけてくださいね〜。

 あーでもアリアーヌが清潔で良かった…(-_-;)
Embed from Getty Images「いつも2人で」は映画公開当時、結婚12年の中年夫婦の倦怠期を描いた作品なんて言われてたんですよね。
 でもこれ、オードリーは18才〜30才の役なんですよね…。

 ちなみに、ここへお越しいただいている、大好きなまるさんが調べてくださったことで、「いつも2人で」に出てくるパスポートによるとマーク1933.8.22生まれ、 ジョアンナ1936.7.11生まれ。イギリス・サリー州在住という設定が明らかになっています。

 公開当時の30才なら仕方ないのかもしれませんが、作家の林真理子さんが書いてらっしゃったように、“30才で中年扱い!?”とは確かに思います。
 今の30才なんて、まだまだ若い青年時代ですもんね。

 それに以前から思ってたんですけど、この映画は12年にわたる6度の旅の映画ではあるんですけど、1954年から1966年(撮影年)を描いた作品ではないですよね。
 どっちかっていうと、その12年は全て1966年くらいという設定じゃないかと思います。
 サントロペの海岸みたいな、過去を意識したシーンもあることはあるけど。

 というのも、小道具や衣装、そしてメイクに昔の雰囲気を出そうという意図が全く見えないですよね。オードリーを見れば一目瞭然なんですけど、メイクも衣装も髪型も、全部撮影当時の1966年を意識したもの。

 アイメイクはずっと変わらず1966年のクレオパトラメイクだし、結婚後2年というセリフが出てくる友人家族との2回目の旅での髪型は、明らかに1960年代後半の、トップを盛り上げて、垂らした長い髪は外はねという髪型。1956年にしようという意識が無い。

 それからさらに2年後くらいであろう中古のMGでの旅でも、オードリーは超ミニのテニスウェアみたいなのを着てるし、全然1958年頃の衣装じゃない。

 オードリーの1950年代の映画やスチール写真を見ればわかる通り、50年代の女性の衣装だと、まだまだふくらはぎまであるほどスカートの裾は長いし、54年だったらフレアースカート、56年頃だったら「パリの恋人」風タイトスカートか「昼下りの情事」風腰から広がったスカート、みたいな感じで、「いつも2人で」で描かれているものと全然違う。

 これ、時代考証がなってないんじゃなくて、監督のスタンリー・ドーネンが意図的に、わざとやってますよね。
 なんでだか今まで誰も書いてないので、ここで世界で初めて書いたよ、って言っときますね。文章をパクらないでね(笑)。

 映画の年度の設定は1966年という単一年で、その中でマークとジョアンナは12年過ごしてる。
 サザエさんの世界のようでいて、そうではない不思議な空間で2人は生きてる。

 この時代臭の無さが、映画の中で色んな時期が交錯するのにピッタリ合った設定だし、新しさを醸し出してる。
 違う時代の2人が何度もニアミスするのも、実は同じ年なんだったら全然不思議じゃない。

 いわば、1つの世界に6本の平行宇宙が同時にあります、って感じですよね。そして、その平行宇宙の過去に当たる記憶は持ってるという、SF小説でも未だ描かれた事の無い、もの凄い斬新な設定かもしれないという…。

 これって、監督のスタンリー・ドーネンのある意図が隠れているのかも…と思います。

 別に平行宇宙を描くSFにしようとしたんじゃないでしょうけど、12年前も今も同じ1966年の感覚で描くことで12年前を “過去のノスタルジー” にはしようとしなかった、ってことは意図としてあったんじゃないかと。

 今だとテレビなどで昭和を描く時に「Always 三丁目の夕日」(オードリーの「オールウェイズ」じゃないよ)の音楽を使って郷愁たっぷりに昭和50年代でも60年代でも昭和20年代や30年代のように押し込めてますよね。

 でもスタンリー・ドーネン監督は、若い人が「いつも2人で」を観た時に1回目の旅の12年前でも2回目の旅の10年前でも、そういう “自分と切り離された過去” のお話として観て欲しいんじゃなくて、どれかの自分に最も近い旅と今の自分を重ねて観て欲しいって思ってたんじゃないかと思うんですよね。

 だからこその “同じ1966年で起こる6回の旅” ってことになってるんだと…。

 うん、なんかやっぱり「いつも2人で」は凄い!素晴らしい!
 「いつも2人で」ってオードリーを好きになればなるほど評価が上がるみたいだし、見る度に感じ方が変わる、いろんな発見があるっていうのもスゴいですよね。
 もし最初に見て、あんまりわからないとか気に入らないとかあっても、オードリーファンならいつかもう一度見て欲しい、映画ならではの描き方の大大大傑作です!

 いや〜「いつも2人で」って、書いても書いても書ききれない事がいっぱいで…。
 凡庸な僕でも、いつか全容を掴みきれる日は来るのかな〜?って感じです。


※僕のもうひとつのブログ「オードリー・ヘプバーンといつも2人で」2014年11月10日の記事の一部に加筆訂正しました。


「尼僧物語」には2枚組オリジナル・サウンド・トラックCDがあります。作曲者はもちろんフランツ・ワックスマン。

 裏面に“FOR PROMOTIONAL USE ONLY -NOT FOR SALE”と書いてますので、プロモーション盤らしく、一般には市販されてないようです。

 なんと収録曲は全61曲!うち、最後の3曲はリハーサル時のボーナス・トラック。
 船がコンゴに向かうときの音楽のリハーサルでは、イマイチ音が深くなくて、まだ演奏者がどう演奏したらいいのか掴みきれていないテイクを聴けておもしろーい!

 でも、これ市販盤での22曲でも相当数の“フィルムではカットされた”って曲が多いんですから、61曲もあったらそりゃあもう多いです、映画で不使用になった曲!
 対比として、オリジナル・バージョンと変更後の曲、2つセットなのがやたらありますもん。

 こんなにいっぱい力作を作ったのに、差し替えられたり不採用の曲ばっかりだなんて、ワックスマンが怒るのも当然っちゃあ当然。

 でも、フレッド・ジンネマン監督が使いたくないのもわかる気がする…。ラストシーン用の、ハッピー・エンディング・バージョンとかあるし。ワックスマンはなんかこの映画の意図を完全に履き違えてると言うか…。

 確かに一般ピーポーの僕たちには、シスター・ルークが尼僧をやめてガブリエルに戻るのは、修道院の戒律を考えた時にハッピーエンドに見えるんだろうなーって思います。
 でもシスター・ルークの立場に立って考えた時には、必ずしもハッピーなんじゃないっていうのがわかるんですよね。

 もしこれをハッピー!と捉えてしまったら、この映画の価値が随分小さくなるような気がします。修道院を踏み台にして自分だけ成長したっていう単なる尼僧“批判”物語?みたいな。

 シスター・ルークのモデルになったマリー・ルイーズ・アベも、“もし「尼僧物語」をもう一度観たら、修道院に戻ってしまう!”って言ったと伝えられているように、決して修道院がイヤだったんじゃなく、不服従の戒律と自分のしたいことが全く相容れなかっただけ。

 だから“もう尼僧がイヤになったんです!”って還俗できてやったー!じゃなくって、もの凄い内面の苦悩があって騙し通せなくなったという、むしろ逃避としての部分も多い還俗じゃないかなーと。
 神と自分は騙せないから還俗の意思は固いけど、ラストシーンのガブリエルは全然嬉しそうでもない…。

 「噂の二人」だと、全体ではあんなに暗いのに、ラストは毅然と顔を上げて前へ向かって歩くカレンです。最後は微笑みすらします。
 でも「尼僧物語」は後ろ向きで歩いていくんですよね。顔は歩き出したらもう見えません。最後は右へ行くか左へ行くのか迷ったりもしている。

 そんなラストのオードリーににっこりさせなかったフレッド・ジンネマン監督の意図を考えた時に、これがはたして“ハッピー・エンディング”って曲付けでいいのか?って考えたら絶対違うと思うんですよね。

 実際、“なんでラストシーンに音楽がないんだ!”ってワーナー映画の総帥ジャック・ワーナーに言われた時も、“もし明るい音楽だったら、ワーナーは尼僧が修道院を出て行くのを祝っていると思われます。暗い音楽だったら観客は気が滅入るでしょう。”って言ったジンネマン監督の言葉を思い出せば、ハッピー・エンドというわけではない(バッド・エンドでもない)っていうのはわかると思うんですよね。

 だからいくら音楽的には優れていたとしても、映画「尼僧物語」には合わないっていう曲がいっぱいいっぱいあることになってしまいました。

 他にもシスター・ルークが列車でコンゴを離れる時の音楽(このCDでは2枚目の7曲目、市販盤での17曲目)も、ワックスマンのオリジナルはとんでもない悪夢のような音楽になってます。
 これを聴いたジンネマン監督がガブリエルのテーマに替えさせたというのも納得です。

 だから、ワックスマンのオリジナルよりも、変更後の曲の方が断然いいです!

 ワックスマンの思う「尼僧物語」の全容がわかるのはいいんですが、重く暗い曲が増えて、ますます通して聴きづらくなったサントラ。

 そうですねー、「戦争と平和」が今以上良くもならず、悪くもならずで、上映時間がさらに倍になったと思っていただいたら…。ね?通しで観るには勇気がいるでしょ?

 これを聴き終わった後には、気分転換に「パリで一緒に」や「おしゃれ泥棒」といった軽めのサントラをオススメします。間違っても次に「緑の館」とか選ばないでくださいねー(笑)。

※僕のもうひとつのブログ「オードリー・ヘプバーンといつも2人で」2007年8月4日の記事からの再録

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